「たかが」という言葉のありようについて

坂本龍一自身の言葉についてはとりあえずおく。このことを扱ったあるエントリのコメント欄について。

あなたの文章では、教授が本当に伝えたかった意図、真意とは違うことが論じられていると思います。ただ単に、命は最も優先すべきもの、ということを強調する為の言葉だと思います。

あなたが上記文章で論じていることは当然のように教授も承知していることだと思いますよ。言葉の細かい点をかいつまんで批判したり異論を唱えるのはもうやめにしないと、中々前に進めないのではないでしょうか。

今すべき議論について、もっと意識的になった方が良いと思います。

投稿情報: 通りすがり | 2012/07/17 11:11

POLAR BEAR BLOG: 「たかが電気」と言うべきではないもう1つの理由

なんだろうね。言葉の細かい点をかいつまんで議論する、というのは前に進む為の障害にはならないどころか、後退しない為に重要なことだと思うんだけどね。何かを「たかが」と評価することは、社会の多様性を否定する言葉だし、何かを簡単に否定することが先に進むための重大な要素であるとは到底認められない。「たかが」で済むならそれこそ娯楽禁止、報道以外のテレビ禁止、もちろん、音楽も禁止すべきだ。だから、今すべき議論は「たかが電気」なんていって電気の必要性について無視することではなく、必要最小限の事を賄っていくためには何をすべきかということを考えることのはず。極めて観念的(で無意味な)な議論の提示である、ということを「たかが」という言葉は象徴してしまっている。思考を端折るためのレッテル貼りともいえる。だからこそ、「たかが」に抗議する人はたくさんいるし、それを瑣末な事項として扱ってはならないと思う。

言葉は好意的に解釈することによって見えてくるものは違う。だから、悪意で解釈しても見えるものは違う。信者だけに敬ってもらうことを目的としていない言葉を発するのであれば、解釈論の余地が出るような言葉を使うべきではないだろうし、今回の言葉はどう好意的に受け取っても電気の重要性をオミットしている。

電気なかりせばYMOもあらじ。今自分がこうしてあることを成り立たせてくれたものへの感謝のない言葉がどうやって他人を動かすのだろうか。