職業選択の自由と病気とうつ

職業選択の自由自体は身分と職業が不可分だった時代を打ち破った名残でしかないと思うけど、仕事をするにあたってはどうしても「向いている向いていない」が問われてしまう。好きでも向いていない仕事を意地でも続けるというのは本人にとっても周囲にとっても不幸なことだと思うんだけど、簡単に割り切れる問題でもない。

XXが不自由である、という事実が仕事の幅を縮めることはよくある。目とか耳とか、そういう外形的なものについては周囲も本人も、割り切れるんだけど、それが病気だったらどうか。例えば、心臓に持病が、という人が激しい運動や長時間勤務を伴う職業につけるか、という問題。雇用という観点では福祉枠で一定以上確保するのが社会のルールとしても、職種としては難しいものがあるだろう。

じゃあ、うつはどうなの、というのが最近悩ましい。例えば、現場でお客さんと仕事をしなければならない職種で、「彼はうつなので仕事が半分しかできません」というのは通らない。仕事や会社にはっきりとした原因があればそれを取り除くのは会社としての役割だとは思うけど、本人に原因がある場合にそこまでなんとかすることはよっぽどリソースに恵まれた会社でなければ不可能だ。

もうね、新型うつなんてのは特にそう思うけど、心臓に持病がとかそういうレベルの病気だと思うんですよ。病気だから悪くない。悪くないけどその病状なりに働き方に制約が出る、というもの。そうすると、新型うつってのは社会的にきちんと持病として認知され、それによって働き方の枠も変わるようなものじゃないといけない気がするんだよね。

心の病に限らず、病歴ってのは人生について回るものだし、それが周囲に正しく認知されていないと不幸になる。
少なくとも、SIerってのは新型うつにとってハッピーに働ける現場ではないし、そういう人たちをどのようにしてあげればその人の人生にとって最良の方向を向けられるのか、ということについて悩んでしまう。

病気だから仕方が無い」で終わってしまうのではなく、病気の人でもハッピーになれる仕事の分化、というのがこれからどんどん必要になってくるかもしれない。ただ、もちろんそれは「病気」とみなされた人にとって不本意な結果になってしまう可能性はある。病気が能力を阻害することほど不幸なことはないと思う。その辺をどのようにバランスできるかを考えていかないといけないのだろうか。

病気は甘え、嫌なら辞めろ」というのは乱暴な考え方だけど、かつてはコスト比として妥当だったことで許容されてきたのだろう。社会がある程度コスト度外視の弱者救済を義務付けられるようになって、行われてきたことが、不況で雇用が不調になったことによってコスト面での問題として再浮上してきた部分もあるだろう。みんながハッピーになるためには、好景気を取り戻さないといけないのである。