批判的な意見のRTという行為について

前回の記事ではるかぜちゃんの「ついり10ヶ条(ω)」を持ちだしたのはちょっとわけがあります。それは第8条についての疑問。
第8条にはこうあります。
「8 なるべく自分にひはんてきな意見はりついとする(ω)」
これって一体何のため?

好意的な見方をすると、批判に対して真摯に受け取ったよ!ということをアピールするための行為。で、その批判、どうするの?

twitterの特性の部分もあるんだけど、RTは公式非公式に関わらず、「で?」という部分が分離しやすくなっています。つまり、「批判されたけどこれ違うよね」と「批判されて、確かにそう思うので改善したい」と「非難された!あいつムカつく!」の違いが少なくとも単体ではさっぱりわからない。はるかぜちゃんなんてRTするだけでそれ以外のアクションがないことがほとんどかな。そうすると余計にそうなる。
だから、「攻撃してなんて頼んでないよ」というのは若干想像力の欠如を感じざるを得ない(言いすぎかも?

僕が批判的な言及をされた時に、それについて更に言及するときは、ほぼ反論をしたいときですし、その反論というニュアンスの中には「バカ晒し上げ」的気分があるのは全く否定出来ない。はるかぜちゃん他、批判をRTする人たちがみんなそうだと言うわけではないけれども、周囲がどう受け取るかを考えると、僕はかなり確信的に攻撃的行為としてRTをするんだろうなと思ってしまうのですね。
仮に、批判をきちんと受け止めて、自分の何かを改善する方向に行く場合は、批判に対して肯定的なニュアンスのコメントを必ず行うと思う。ニュースをRTをするわけでもないしね。
そういう意味で、僕は言及ツールとしての機能は、はてブに軍配が上がると思っているし、「あとで」以外のものについては必ずコメントをしている。情報を発信するときにその情報についての自らの見解を付加するべき、というのが僕の情報発信ポリシーであるし、そういう点でもはてブは使い勝手が良い。
twitterもRTにコメントすることができなくはないんだけど、元の発言の長さによってきちんと付与できる文字数が左右されるからなあ。