建前を貫くことは心を蝕むことがある

守るべき建前、言えない本音。twitterが馬鹿発見装置として機能してしまうのは、つぶやくという性質からついつい本音が漏れてしまうからだと思わなくもない。
前ちょっと触れたように、本音って言うのは人間の感情的な部分が思考に反映されたものだ、という部分があると思うわけ。だから、本来守るべき建前と相反するものであることが多い。でも、人間ってその本音を押し殺して建前を貫く、というのが大事だと思っているはず。だけど、建前って苦しい。というか、苦しいということが往々にして許されないのが苦しい。
うまくそのあたりを使い分けられる人は、本当に何でも話せる友人に本音の部分を漏らして、でもその本音って言うのは思想信条そのものではないということを理解してもらって、精神の負担を減らしているんだろうなって思う。全部建前だけで生きていけるとしたらそれは強靭な精神というよりはどこかおかしい。でも、感情に左右されない訓練をする(あるいはもともとそういう気質である)ことでそうは慣れるんだと思うけど。

で、問題は、正論という建前を他人を攻撃するときに使っている場合。結果としてそうなっちゃう場合も含めてね。ようは、自分の正論によるポリシーを貫く行動を繰り返していたら、それが結果的に他人を傷つけているようなとき。そういうときに、その自分の行為を肯定するためには建前を貫き通すしかない。確固たる何かがあってそれを行うのであればそれほど難しいことではないんだけど、行為の動機に少しでも曇りがあるとき、それは次第に心を蝕んでいく。

なので、判断基準や自分の信念が社会の要請とある程度すりあうところで確立されるまでは、そういう建前を貫くよりは感情をある程度露出したほうがよいと思うし、そういう意味で本当は若年層がTwitterを使うのはお勧めしないんだけどね。