理想は多大な犠牲を強いる

「現実ってのはなあ、おままごとではないんだよ。なあ、おぼっちゃん。」
理想と現実のギャップを目の当たりにして成長して行く物語ってかなりステレオタイプですが、それだけ実際の問題として直面する人が多いということです。
僕らはここで理想を追うのか、現実を選択するのかを迫られます。なぜ、理想を追うことは往々にして危険、非現実的とみなされるのか。いろんな角度から判断してリスクが高いとみなされているからですよね。リスクには、実現に際して犠牲になるものの多さや、結局実現しなかった時の惨状も含まれています。
なので、現実と言われているものに従うのが正解かというと必ずしもそうではない。現実が十分にリスキーならば、別の現実を模索しても良いし、それが理想である場合もないとは言えません。
理想のもう一つのリスクは、その実現過程や実現結果において変容して行くことが往々にしてあることです。理想が実現できない壁に当たって進路を曲げた時、その理想は元の現実と比較して良いものにとどまっているのか。その評価はわりとないがしろにされます。元の理想が良いものであればあるほど、目的は手段と化して行きます。社会の平等を掲げたらそれが階級社会の道具になるようなものを僕たちは目の当たりにしてきていますよね。
理想というのは仮定が多いことがあります。もし、全てのxxがyyだったら。家庭が十分に実現可能性を持っていなければ、理想は単なる机上の空論です。理想と現実の妥協点をこの仮定の位置に求めてしまうと確実に理想の根幹が変容します。理想が非現実的と言う指摘がこの点にあるのであれば、考え直したほうが良い。でも、それでも理想を貫くことは可能です。すべての人間が争いを起こさないでいられたら…しかしそれは為政者としては前提にしてはいけない話ではありますね。