小児性愛はなぜ認められないのか

小児性愛など反社会的とされる願望はどこまで「認められる」べきか? - Togetter
内心の自由については議論を待たない(と言うことでいいよね?
問題は、内心の吐露である。と言いたいところなんだけど、その内心たるものが体現する欲望がそもそもなんなのか、と言うところに立ち戻って見たい。
そもそも、現代社会において、相手の合意を得ない性行為は認められず、また、児童におけるそれは判断能力の欠如という理由で合意を得たとはみなされない。
(その話の極北には知的障害者における性の問題が控えているがここでは議論しない)
すると、同性愛に対するそう言った部分は取り立てて願望を述べることも相手の合意を得て行為に及ぶことも問題にならない。単に異性愛と同様である。しかし、小児性愛においては、それは実現し得ない。むろん、ファンタジーの中では成立しうる。なので、それが実現することを前提とした願望として公言されることは極端にいうと犯罪予告に他ならない。
では、思うのは勝手である、の中で思っているのは実現願望なのかどうか。
社会的に問題のない行為に対する実現願望は、それが許される可能性に対する願望だとすると、社会的に許されない行為に対する願望は一体何なのか。
そこのところがわからないので困っているのではないかなあ。純粋に性衝動だとしたら社会のルール的にはレイプ願望とほぼ等しいからなあ。
あるいは受け入れられると言うファンタジーか。そのファンタジーも社会のルール的には実現不能だから、そういう願望を持つものは現実でそれを行う欲望を持つものであるとされる。んで、その欲望自体はたぶん否定し得ないものなんだと思う。もちろん、現実に行動を起こさない、というのはある種の誓いでもあるだろう。
かつては同性愛もこうしたルールに抵触する禁断の行為だったのだけど、いまはそうではない。残念なこと(?)に小児性愛においてそのルールが撤廃されることはないだろう。なぜそのルールが撤廃されないのかの理由を考えると、それはそのまま社会が小児性愛を忌避する理由である。

欲情することと、行為に及ぶ願望を持つことは厳密には違うんだろうけど、しばしば同じに見えると言うのもこの手の公言が忌避される一つの理由だろう。しょうがないじゃんね、性癖として、欲望を刺激されるのは。ただ、それをカミングアウトされたところで、どうすることもできない。許されない願望は果たしてどのように昇華されるのか。それが実際に小児に向かないということがある程度はっきりしないと怖いし、矯正したいと思われるのだろう。
社会的に許される性癖しか持たない人はこのような葛藤とは無縁だろうし、真剣に悩む機会はないかもしれない。むしろ欲望を向けられる(と思っている)対象を守る方が大事だと考えるだろう。

と、まあ取り留めもなく考えてきたけれども何と無く結論めいたものをいうと、ボーダーラインは意思の発露かな。願望を実行に移す意思、それは必ずしも言葉を伴わない(がそのために相違としていない行為が実行の意思であると誤解される危険もある)。願望の発露はその前段であるしそこにおける態度が実行の意思を醸し出すものであれば許されない領域にあるだろうね。終始曖昧なのは、たぶんにこれがTPO依存の問題であり、なおかつ、客観視が難しいからだ。
まとまらず、おわり。