標準医療への怨嗟

いたたまれない、と思ってしまうのもそっちの人から見ると「標準医療信者」みたいにみえるのだろうなあ。
抗ガン剤治療に見切りをつけて病院に行くことを止めた末期癌患者さんの経過 - Togetter
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肉を食う食わない、タバコを吸う吸わない、酒を呑む呑まない、麻薬をやるやらない、生レバーを食う食わない、医者にかかるかからない、全て本人の選択においてなされたある種の愚行だし、場合によってはそれが社会に迷惑をかけることもある。
不治(あるいは治るのが難しい)の病にかかった時に、何を信じるかにしてもそうだ。

医者が死に臨んで治療を望むかどうか、というのは定期的に出てくる人生についてのテーマだ。

勿論、医師も死ぬ事を望んではいない、彼らは生きたがっている。しかし、彼らは近代医療の限界を知っている。そして、全ての人々が死にたいして何を恐れているかも知っている。その恐怖とは苦痛であり、孤独に死んでいく事だ。

http://www.lifener.net/e3689962.html

こういうのを短絡的に「医療は意味が無い」と結論付けることもまた現代の悲劇であると思う。医療とは宗教である、と言えた時代もあった。なぜ現代の医療は「保証」が求められるのだろうか。それは医療が社会に不可欠な経済活動の一環であるからだろう。逆に言うと、標準医療以外の医療(インチキも含む)は、社会が規定している経済活動からはみ出ているもので、だからこそ保証はされないし、高額でも許される。誤解を恐れずに言うと、標準医療(あるいは、標準と認められていないが効果のエビデンスがきちんと存在する医療)以外の医療は(原義として)宗教である。それが与えるのは治療効果ではなく、精神の安寧あるいは希望である、と。奇跡を願う気持ちは客観的に見て愚行だったとしても、それを引き止めることは容易ではない。

本当は、奇跡なんて起こるわけがないことはわかっている。高額を費やして得られるリターンは0かもしれないけれども、精神的に得たものはpricelessなんだよ。ありていに言ってこれは詐欺ではあるのだけれども、自分を納得させるための費用としては価値が有るのかもしれない(僕はそうは思わないけれども)。でも、それを肯定するためには標準医療を怨嗟しないとならない。なぜなら、標準医療を受けさせると「治るかもしれない」ということを認めてしまうのであれば、それは自分の選択により、治療の機会を奪ったことになってしまうから。
なぜ、標準医療だと「治らないかもしれない」に納得出来ないのか。奇跡にすがって治らなかった時に後悔しないのか。現代の医療から宗教の要素が奪われた結果として、今こうなっているのではないかとは思う。人類(というと大げさだな。日本人かな?)には医療の現代化は早すぎだんだよ…

全ての人が標準医療を怨嗟しているわけではあるまいし、代替医療で死にいたっても本人が納得しているならいいんじゃない、と冷たく思うことはあるけれども、一方で、無責任に人を死に追いやって超然としているインチキ医療宗教家がのさばっている現状には憤りを感じる。でもこれは詐欺と一緒で騙す方も悪いけれども騙される方も意識的にそれを避ける努力をして欲しいとは思う。