体罰肯定に見る日本人の価値観

いやね、体罰を肯定する人の気持ち、わからなくもないのです。人間ってのは不可解な生き物で、思うとおりには動いてくれない。部活でスケープゴート的な体罰、というのは論外だと思うけど、つい「愛のムチ」と言いたくなることを全力で否定できるかというとちょっと悩んでしまう。だから、こういう問題は心情と切り離して原則を適用すべきだ、としたい。
現場の教師からすると、目の前にある、なんとかなしなければならない事態(繰り返し述べるが、部活を強豪にしなければならないのはその教師の個人的な事情であるため論外)に対して「原則を貫いて有効な手をうたない」か、「原則から外れて手を打つ」かの葛藤があるに違いないと思っている。葛藤がないのだとしたらそれは単なる暴力であるから。
でも、体罰が「有効だ」というのは本当なのだろうか。ここに大きな問題がある。

同校を“常勝校”へと育て上げる中で、顧問は生徒にたびたび手をあげていたが、長年、部内や学校で問題になることはなかった。保護者の1人は「下級生は決してたたかず、上級生をたたいていた。気合をいれるためだと理解している」と話す。

 OBの1人も「先生にたたかれたときは、練習に身が入っていないなど自分自身に問題があった。先生からはフォローもあり、うまくいったときには『おめでとう』『ようやった』と声をかけてくれた」と振り返る。

 現役部員も顧問への尊敬の念を言葉にする。

 「先生はバスケの指導がズバ抜けていたが、高校生としてどうあるべきかを教えてくれた。それは人としての気遣い。道を聞かれたら教えるだけじゃなく、一緒についていってあげるとかを教えてくれるような人だった」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130119-00000544-san-soci

度々だけど、今回の事例は論外だと思っている。それですらこれ。つまり、一般的に言って「目的が正当ならば手段は問わない」という価値観がまかり通っている。そして、「集団のためなら個は犠牲になるべき」、という価値観も。
確かに、社会というのは集団としての機能を発揮するために個が機能するものであるけれども、ここで忘れてはならないのは「個のために集団がある」ということだ。ジャイアンじゃないんだから。
未だに前近代的な「お前より家が大事」「命より名誉が大事」という価値観の延長線上にあるこれらは、昔ならリーズナブルだった(名誉を守ることのリターンが大きかった/体罰によって強まる性向が社会における有利な材料となった)かもしれないけど、今はそうではない。

そもそもさ、言っていることがおかしいよね。人としての気遣いが何故体罰から生まれるのか。そんなことはない。体罰をしなくても人としてどうあるべきかを教えられる人はたくさんいるし、そもそも体罰をしている時点であるべき人から逸脱しているのでは、という疑問を何故抱かないのか。かの高校生はその異常性によって犠牲になったんだよ。

体罰が有効だったのは、人間の個性に基づく「無駄」を効果的に排除するための手段として、だったと思う。発達心理学社会心理学、教育学などなどによって、近年においては人間の個性を奪うのではなく、活かす方向でどのようにしたら社会に適応的な(あるいは適応しなくても生きていけるような)能力を身につけるかが模索されていると思っているんだけど、その中で旧態然とした体罰をベースとした指導というのは過去の成功体験にすがった愚策でしかない。

そのことは、安西先生ですらだいぶ前に気づいていたんだけどね。

もう15年以上前からそんな指導が部活を強くするのではないことを高校生は知っていたはずなんだ。
まあ、田岡先生は叱ったら伸びると思い込んでストレスを与えるという失敗をしてるんだけどwでも、それをきちんと受け止めて改善しているよね。

きっと、今回の教師にもターニングポイントはあったはず。人は誰だって間違うものだからそこのとは仕方ないけれども、成功の美酒に酔って結果としていじめを行う傾向を伸ばしていったのだとしたら、それは不幸なことだし、ここで擁護している周囲も(人道的には)責任を免れないと思うよ。