誤読を恐れてはいけないそうなので、盛大に誤読してみるテスト

日本語という極度に文脈依存をしがちな言語において、誤読が起きるのは仕方がないと思うのですが、著者の真意がきちんとあるなかで、誤読したことを誇るというのもなかなか厚顔というところだと感じる今日このごろです。
とはいえ、誤読は神聖な権利とのことで、僕もその権利を行使してみたいと思います。

どんなテキストも、「著者の真意」なんて気にする必要はありません。そんなものに縛られると、ろくなことがありません。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

ふむふむ、どんなテキストも著者の真意なんて書いてなければわかりませんものね。むしろ縛られるのではなく、俺理論で著者の真意を縛りたいというところでしょうか。

内田樹先生は「誤読」というのは、読者の神聖な権利と書いています。これは目から鱗を落としてくれる、すばらしい指摘です。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

これは皮肉ですよね。内田先生の真意を誤読しているかもしれないけど誤読は素晴らしいのだ、という自家撞着的な文章を提示することで、誤読は素晴らしいというテーマそのものの存在意義を揺るがすという高等テクニック。さすがイケダハヤト師です。

芸術の美徳というのは、鑑賞者が「誤読」する余地があることです。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

なるほど、芸術には絶対がないので、ゲルニカが表現しているものは芸術なんてつまらないものだ、という解釈をしてもよいですものね。誤読する余地があるということはそれが本質的には無価値であることを体現しているということの証左であり、ここでも美徳という言葉の事故矛盾性を指摘しているわけですね。さすがイケダハヤト師です。

ぼくはこの絵を観て、タンギーは「人間が原子になる以前に見た世界」を表現していると、直感的に解釈しました。著者の考えは知りませんが、かなり高い確率でこれはぼくの「誤読」でしょう。ではぼくの解釈が「間違っているか」というと、決してそんなことはありません。芸術の解釈はオープンであり、鑑賞者の数だけ可能性があるのです。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

僕には直感的に見てそういう風には見えませんが、あえて突拍子もない解釈をしてみせることで、誤読というのはいくらなんでも程度問題だろうという裏テーマを明らかにしてくれました。さすがイケダハヤト師。

この楽曲はニーチェの哲学を反映していると言われます。「著者の真意」はそこにあります。が、鑑賞者であるぼくらはそんなことは知りませんし、知らずとも楽しむことができます。

人によっては、ここからキリスト教の思想を読みとるでしょう。ニーチェは一般的にアンチ・キリスト教で、マーラーは作品に特定の宗教観を取り入れることは避けているので、それは著者の真意と反します。が、ぼくらはその解釈を間違っていると断罪することはできません。キリスト教徒が、このからキリスト教の思想を読みとるのは、むしろ鑑賞者として賛美すべき態度です。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

マーラーの3番は一般的にニーチェの思想に少なからず影響を受けていると思われますが、作曲者がそれを公言していないため、それが真意とはわかりませんが、さすがイケダハヤト師、まず誤読パワーでそこを確定させます。そして、それを知らずとも楽しむことができるというごくごくアタリマエのことをさも重要な発見かのように提示して僕達の誤読力を刺激します。そして、誤読パワーを全開にした鑑賞者としての態度を明らかにすることで、僕達に誤読(というより何も解釈してない)ことの無意味さを明らかにしてくれるということです。大変な高等テクニックです。

誤読は新しい価値を生み出します。ぼくは為末さんの意見を誤読しているでしょう。記事のなかでは、ぼくは独自の洞察を展開したつもりです。ぼくは為末さんのことばを元に「新たなバージョン」を作り出したということです。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

一般的に言って、誤読は価値を生まないことがほとんどですが、そんなことはない、という一見鋭い洞察を提示しています。これはつまり、誰かの意見を誤読したことによって新しい考え方を導出する、これがクリエイティブということだ、という素晴らしい言葉は客観的に見たらどう見てもいいわけにしか見えないよ、ということを暗示しているのです。

クリエイティブであるということは、積極的に誤読することです。誤読をもとに、新しい価値を生み出すことです。「著者の真意」を正確にトレースするという態度は、クリエイティブではないのです。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

積極的に誤読することでクリエイトされたものは、積極的に誤読されて消費されます。これはクリエイティブな行為という言葉そのものに対するアンチテーゼでしょう。正確に著者の真意をトレースするという行為はもとよりクリエイティブではありませんが、そもそもクリエイティブな意見というものが無意味であることを大胆に提言しているわけですね。

その意味で、表現者の善し悪しというのは、「誤読の余地」がどの程度許されているのか、という観点からも判定できます。無限の誤読可能性があることは、すばらしい作品であるということです。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

一般的に、解釈の多様性というのはその表現の価値を直接は毀損しない、というレベルで捉えられているのではないかと思いますが、それを更に進めると無限の解釈ができないとその表現は無価値であるという域に到達する、という主張です。もちろん、そんなことはありえないので、これは皮肉でしょう。

ぼく自身の著作も、少なからず「誤読」されています。ネガティブな意味もあれば、ポジティブな意味もあります。読者が予想外の読み方をしてくれるのは、著者として嬉しい瞬間です。ぼくは最近、むしろ積極的に誤読してもらいたいとすら考えています。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

通常、誤読されて嬉しいということはないと思います。これはイケダハヤト師がマゾであるか、あるいは内容について批判されることへの予防線と一般的には解釈されますが、ここまでこれだけのことを言ってきたイケダハヤト師の金言でありますから、多次元解釈世界においては、著者の真意が性格に受け取られる世界も存在するのでこれで問題ないのだ、という量子宇宙論を示唆していると解釈したほうがよさそうです。

というわけで、ぼくは今後も積極的に誤読していきますし、誤読されるような文章を生産していきたいと考えています。みなさんもガンガン誤読して、独自の考えを打ち立ててください。ぼくのことばに限りませんが、あらゆる表現は自分の表現を培うための栄養ですから。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

著者が心血を注いで世の中に訴えるための文章は積極的に誤読されることでその価値を失うので、イケダハヤト師が目指しているのは多様な価値観がぶつかり合う殺伐とした社会ということですよね。多分、正義とか、悪とかを評価することも確固たる思想の軸がなくなることで不可能になりますから、人が人という動物として自然に回帰することを目指すある種のアナーキズムがここにはあります。

なお、「誤読された!」といって怒るような表現者は漏れなく二流ですので、気にする必要はありません。あなたをコントロールし、創造性を抑えつけようとしている人ですので、さっさと距離を置くようにしましょう。

「著者の真意」なんて気にせず、どんどん「誤読」しよう : まだ東京で消耗してるの?

そうですね!そして、結果として正しい文章というものもなくなりますし、文章解釈というのも意味がなくなるので無意味な文章を書き散らすことこそが一流の表現者という世界が誕生します。そこで頂点に君臨するのは、イケダハヤト師その人だという宣言ということでしょうね。