「暴言」による公務員叩きはやりすぎ?

「公」ってのを個人にどこまで負わせるか、というのは難しい所ではあります。叩くべきは「暴」であり、底から離れての批判というのはやりすぎといわれるのも宜なるかなではあります。

「失言」や「暴言」の範囲はあらかじめ定義されているわけではない。情報の受け手が問題だと思えば批判を受けることもあり得る。いくら慎重に言葉を選んでいても、何が問題になるかは情報を発信した時点では判断できない。例え日常的なことを書いていても突っ込む事はできる。「ラーメンのことばかり書き込んでいて、職務への真剣さが足りない」という批判もあり得るからだ。

復興庁職員のTwitter暴言騒動、報道に問題はなかったか(藤代裕之) - 個人 - Yahoo!ニュース

確かにそういう事態が発生したら問題。とはいえ、ちょっと違うんじゃないかなーって思うのは、少なくとも公の立場の職務について、本音をダダ漏らすことが社会にとって重要な話か?というところです。別に「被弾なう」くらいはいいと思う。「面倒」っていうあたりからそろそろ危ない。「左翼のクソども」ってのは仕事で相対しなければならない相手であれば思ってても言っちゃダメだろと思う。
多分大事なのはその辺りの感覚。正直、一連のtweetを見ていると、極僅かな問題発言を除けば、叩かれるほどのことは言っていないように思える。逆に言うと、本音ダダ漏れの中で出る問題発言ってのは本当に問題だってこと。暴言が本音に根ざしたものであることが全く否定出来ないもんね。本音アカで暴言を吐くってのはそういうことなんだよね。

これは、公務員だったから余計に目立ったってのはあるかも知れないけれども、公開されたソーシャルネットワークが本質的には本音を漏らす場ではないってことの一つの証明みたいなものなんですよ。SNSが当初登場した時に「全世界に発信する」ことを意図として発言していた人がどんだけいたのか、という話でもあります。

だから

ソーシャルメディアにはログが残って行く。気に入らない公務員がいたら、ツイッターのログをとり、ある時点で情報公開請求して報道すればいいということになる。これでは恐ろしくて公務員をはじめ、議員や教員など突っ込みを受けやすい職業につく人はソーシャルメディアを利用する事は出来ないだろう。

復興庁職員のTwitter暴言騒動、報道に問題はなかったか(藤代裕之) - 個人 - Yahoo!ニュース

ってのもちょっと話が違うと思っていて、社会と職業とそれに従事する人格というのは建前レベルでキープしなければならないイメージがあって、それを必要以上に崩してしまうと信頼ベースの社会が成り立たない、という問題があるんだよね。例えばはびこる問題を毛嫌いしながらも僕たちは警察官を(ある程度)信じている。本音として「六本木のクラブに特攻なう。正直馬鹿馬鹿しい。文化とは何か」とか漏れてきたら喝采するだろうけれども、「麻薬取引現逮なう。こういう場に来るクズどもは正直全員射殺したい」とか言ったら大バッシングだろう。本音が公開されなくなる、という問題における本音ってのは社会が規範として許容出来る選ばれた本音でしかないのではないかって思うんですね。

ここには実のところ、特定の個と集団の一人としての個という違いがある。「中の人」が本音を漏らすというのと「XXさん」が本音を漏らすってのは決定的に違っていて、匿名言論ってのが本音を可能とするという部分はあるんですよね。
公私の切り替えってのは社会人としては当然のスキルだし、何でもかんでも実名がエライとも思えない。

気をつけなければならないのは、学生のときに実名でやんちゃしたことも残っちゃうよとかそういう部分であって、社会人で始めたんなら実名で本音ダダ漏れってのが本音で罵倒している相手の目の前でそれをやっているのと同じ、ということくらいは理解しておかなければならないってことじゃないかなあ。

公務員に実名本音tweetを求めちゃうのも、「オープンガバメント」の名を借りた、公務員個人に対する過剰な要求にも思えます。