「受け手次第」という免罪要求について

えええ、それズルくない?って話。
「南相馬で水が青く光るんだって」→南相馬市民「ねえよ」→「聞かない?」→「ねえよ」→「正しいかは受け手次第だから記録しとかなきゃ!」 - Togetter
大概ひどい会話がされているけど、驚きの一節がw

まぁ、私は正しいか正しくないか受けて次第だと思いますがね。自己責任で考えていく問題なんだと思いますよ。

いや、正しいか正しくないかを受け手が主観で決めちゃダメだろw自己責任で考えていく問題って情報発信に対する免罪要求だよね。

ちょっと話はそれますが、こういう「自己責任」の主張はわりかし対称性が無い事が多いんですよね。自分の行為に対する免責事項として受け手の自己責任を要求する一方で社会で問題になっていることに自己責任との声が上がるとそれはおかしいとか言ったりして。この人がそうというわけじゃありませんが、過去そういう人をチラチラと見ています。

余談はおいといてですね、「正しいか正しくないか受けて次第」ということのズルさについて。客観的な事実の提示の後にそれをどう捉え(分析し)判断していくかは自己責任である、と言っているように一見見えてしまうのですが、この言葉は以下の指摘に対してのものです。

正しい情報ならば記録が必要ですが、伝聞で情報元も確認出来ないものは記録しても混乱の元になります(硬水にセシウムが入って光ったと言われるように)

つまり、真偽不明のものを事実かのように発信した上でそれを受け取るほうが自己責任で判断せよというのは前も書いたけど「俺は信用ならない存在であるという主張」にしかならないんですが、当然ながらそういう主張をしているわけでもない。さて。

自分では判断できず拡散してしまっている人がたくさんいるという状況について「あいつらがバカだから仕方がない」とでもいうのでしょうか。自己責任ってのは情報が正しいことを前提にどう判断するかという部分にしか適用されないので、誤った情報を流すことの言い訳には絶対ならないのではないでしょうかねえ。