やっぱり著作権なんていらないと思うような議論

なんだかんだ言っても世の中で延長をしたいとか同一性保持権がどうとか言っている著作権ってのは「著作で稼ぐ権利」なんだなと言うことがよくわかった。

ブログや掲示板、Web日記など一般ユーザーによるネット上での創作は、質が低いものが多いためプロの仕事とは切り分けるべき、という意見も上がった。

「著作権保護期間、作家が選べるシステムを」――延長めぐる議論再び (1/2) - ITmedia NEWS

どっかのブログでも同じような意見を見た。何か、著作権の成立には質が必要なのか?

著作権を自ら否定していないか

相変わらず不勉強なので実態に即しているかわからないけれど、まずまとめてみる。もともとヨーロッパでの文字通りCopyrightとして成立した著作権(これは大雑把に言うと複製権・出版権・流通権だな)とは別に市民意識の高まりから自然法というか、当然持つべきものとしてのその著作の著者としての権利がある。前者については著作財産権と言う形で存在し、後者については著作者人格権などの原著作権として存在する。人種やその他の要因によって人権が差別されないのと同様に、あるいはそれ以上に評価ができないものとしての「著作の質」が差別されえるのか。もしそうだとしたら、生まれながらにしてある著作の著作権と言うものを否定していることに他ならない。

価値

著作の質が低いことは商業的には価値を持たないかも知れない。それはそれでよい。著作権とは商売をする可能性についての権利であり常に商品として価値があることを保障するものではないからだ。
個人的には、所詮個人の、商業的ではない著作について無断引用がどうだ無断転載がどうだという権利を認めよ、と言いたいわけではない。むしろ商業的ではない全ての著作は発表された時点でパブリックであればよいと思う。
ただし、そのことは著作権を放棄するということではない。商売をしないんだから持っていくのは構わないけれど、それを黙って商売に使われたとしたら信義にもとると感じるわけだし。
そして、その「素人の文章」は質が低いのか商売として書いていないからなのか。そこの線は一体誰が引けると言うのだろうか。自分がレベルが高いから著作権を持つべきという著作者は、質という価値の相対化をしたことで自分も相対化されることを考えていないのだろうか。つまり、世のプロと認められるレベル以下のものを書いたら自分のも著作権がないと認定されえると言うことに気付いていないんじゃないだろうか。

商売

いっそ、「全部金のためなんだ」と言われたほうがどんなにすっきりと納得できるか。同一性保持権だって最大限悪意をもった見かたをすると「改変したものを改変者自身の著作物として商売をされないための権利」ということだってできる。
もともと著作権なんてお金を生み出すためになんとかシステム化しようとして考えたものなんだから、それを芸術だ何だと言って余計な権利までくっつける必要はないではないか。そもそも何が芸術家なんてことは大抵の場合、後世において決まることだ。
商売にする以外に広く著作を流布する手段がほとんどなかった過去と違い、今は元手無しに簡単に発表することが出来る。だからどこまでが商業著作物でどこからがそうでないかというのはよくわからなくなっている。だったら著作も特許と同じような仕組みにすればいい。著作権で商売をしたかったら著作物としての登録をすればいい。それが商売になりうるのであれば、何がしかの登録料を払っても元がとれるだろう。著作が売れることが期待できないものでもパトロンがいればよいのだ。

金のため以外の延長は不要

上記の元ネタであるところのフォーラムの映像がhttp://thinkcopyright.org/resume_talk01.htmlで公開されている。三田先生が寝言を言っている。財産権ではなく同一性保持権のために延長が必要だというのだ。なぜなら、著作権が切れたものはファンが勝手に改変してしまうから原型を保持できないからだと。それが要因なら20年程度増やしたところでどうにもならない。ところで、源氏物語は改変されたのか。確かに現代語訳とかわかりやすくストーリーを改変とかエロ小説にしたりとかされたりしているけれども、元の源氏物語が失われたなんていう人はいないだろう。文学作品なんてそんなものである。いや、真に残るべきものはそんな強さを持っていると言おう。

著作権自体の必要性が問われる

そんなわけで、延長賛成派は思惑で話すばかりに一番大事なところを見失っている議論になっていると思えてならない。著作権が職業著作者の特権ではなくなったことに気付いた上で、自分が商売をしたいのか芸術作品を作りたいのかを良く考えて欲しい。もちろん両立してもよいけれど、それは特権ではなく、結果に過ぎない。少なくとも、自ら職業に選んだのであれば、保護されるべき珍獣扱いされたいわけではあるまい。

もう一度言うけれど、著作権が決して職業著作者の特権的な権利でない以上、著作者以外の視点も含めた上での妥当性の議論になるのは仕方がないことだ。そこを捨て去る覚悟があり、商売に徹するのであれば、また別の議論があってよいとは思うのだが。

「イメージ図」の成立要件

TBSの言い訳があんまりなんで。
「イメージ図」というものを本物の図(って言いつつこの場合は写真だね)や映像の代わりに使うのはなぜかというと、その図そのものは事情があって使用することができないか、あるいはわかりにくいから概念を落として表現した代替の図のほうが相応しいから、という理由が大半でしょう。
“2ちゃんねるそっくり”掲示板放映 TBS「担当者が作成」 - ITmedia NEWSで示されている「桜庭選手に対するファンの声がインターネットの掲示板に掲載されたイメージを伝えるために、番組担当者が作成したもの」というのがそれにあたるかどうか。これを「桜庭選手に対するファンの声がインターネットの掲示板に掲載された(はずだ、あるいはされてたらいいなあと言う担当者の脳内)イメージを伝えるために、番組担当者が作成したもの」と解釈すると、イメージ図という概念が成り立ちます。ただし、この場合、この括弧書きの中身が明示的に示されていなければならないわけです。「桜庭選手に対するファンの声がインターネットの掲示板に掲載された(のを見たんだけどURLがどこだかわかんなくなっちゃったからそのとき担当者が見た)イメージを伝えるために、番組担当者が作成したもの」でもいいけど、いずれにしても、イメージ図っていうのは画面上に「イメージ」と書いてあるものですよね。一般的には。
自らイメージ図であることをぼやかして放映し、批判が起きるとイメージ図だと言い張る。事実を伝えなければならない報道機関としての矜持は全くありません。後で言うくらいだったら最初につけておけばいいのですから、捏造の意図があったと言われても弁明の余地はないはずです。
「あったかも知れない」ことは「なかったかも知れない」ことであり、それをどちらかに誘導するために映像が果たす力は大きいのです。ちょっと前にも「豚肉をコーラに漬けたら」という捏造映像がありましたが、それと同じレベル(とあえて言おう)のことを天下のキー局様がやっておしまいになるとは世も末ですね。