舌禍事件と表現力

常識的に考えて、病気にでもならない限り体内の臓器が腐るなんてことはありえないわけで、そういう意味では表現力の貧困さが招いた事件ではある。
けれども、TVの向こうというのがあまりに身近になって、偶像でなくなって、あるいは、同世代の代表的な、あるいは友達感覚な、そういった気持ちで、つまり、放送で全国に流れるということを意識できなくなっている状態で、友だちに話すそのままの、貧困でもニュアンスが伝われば問題ないというコミュニケーションのままで、発言してしまったんではないか、というようにも思える。
世界は日に日に狭まり、その縮小化はコミュニケーションを縮小している。正確には、コミュニケーションの幅を。儀礼というものは無視されるのが普通になっているようにも思える。本当はきちんと相対化された儀礼がないとそれを破るという行為もまた意味がないのに。クラシックがないのにモードが存在しえるはずがないのと同様に。
政治家の発言も大概酷いわけだけれども、それも日常と非日常の境目を失った、ある種の危険な兆候であって、その使い分けができないことを嘲笑している諸外国の政治家は多いのではないだろうか。政治屋であれば、それでもいいのかもしれないけれども。

どうしても違和感

自業自得・どうせわかってないから繰り返す・えこひいきの問題、みたいに結論付けられるのは別に構わないというか、そこのところは自業自得の範疇であるし、死者に鞭打つような行為とはいえそれをやってきた人を擁護した結果として為されたことであるから特に僕が言うべきことはない(一つあるとすれば、自得の部分が僕の目に入るところで公然となされた行為であること、しかもそれが助けを求める行為に対しての応答として為されたことであり、それは正義ではなく、私刑に思えるところだが、それまでの背景をリアルタイムな実感として知らないのでこれ以上口は出せない)。
けれども、ウェブ上の論戦(というか、人間性を巡るやりとり)はともかくとして、現実に及ぶかも知れない、このきっかけになった行為はどこに行ってしまったんだろうか。僕が唯一問題にしているのはこの点であって、そこにおいては当事者不在なのでこれ以上進みようはないけれども…