感性と目線は違う

うまく表現できなそうだし、大した意味があるとも思えないけど、書いてみる。
目線ってのは自分の立つ位置を変えたり、しゃがんでみたり、肩車してもらったり、「上空の〜アナー」とか「見ろ、人がゴミのようだ!」とかで容易に変更可能だし、多分に相対的なものだから、獲得した目線での物言いは、あくまで一時的なものであるし、そこに自分の思考の全てがあると考えるのは危険だ。ましてや感性と混同するのは。
上から目線とか、高い位置とかで、その相対性に優劣の関係性を持たせようと考えるのは、純粋な議論の観点から行くとナンセンスだけど、文脈を理解するときには有益かもしれない。
そういう、文脈的なものを感性としてしいまうのであればそれこそ、その感性は他者には受け入れがたいものになりそうだ。もちろん、感性は人それぞれのものだけど、その、あまりにかけ離れている、思考の過程は理解しがたいものに見えるのではないかな。

書き手自身、何が不愉快かに気づいていない

「ありがとう」が不愉快ってのは奇妙な感覚だし、言説だと思う。書き手自身、不愉快な場合とそうでない場合があるといっている。とすれば、このことは本質においては言葉の問題ではなく態度の問題か、相手との関係性の問題であり、「ありがとう」はその象徴にすぎない。
不愉快な感触をある言葉に押しつけるのはまあ良いのだけど、そのことに違和感を覚えることを他人に疑問として問うのは思考の手抜きではあるまいか。思考せずにある言葉に感情を代弁させるから、よりその言葉の印象は固着する。
言いたいことはわかる。けれど、常に不愉快ではない意味を少し掘り下げるだけで、言葉に責任はないということがわかるはずなのに。本当に問いたかったのは言葉の問題だったのだろうか。