ある二つの議論について

どちらも自分の専門について誠実な二つの議論。対象とアプローチが全く異なる。
一つはある種のでたらめを信じている人に対して物の考え方を基本として諭すやりかた。実は「信じている人」については諦めていて、「半信半疑」の人に対して嘘を嘘と見抜くための方法を提供している。このアプローチは自分の仕事の範疇をわきまえて、できる範囲で誠実に行っているから、その点について批判されるのはおかしい。信じている人たちの心を直接変えるためには逆洗脳しかありえないが、それはコストが見合わない。しかし自分が信じている世界があまりに周りとかけ離れていることに気付けるほど、周りが正反対のことを信じていれば何かのきっかけで洗脳が解けることがありうる。多分、そういうコスト意識もあるんだろう。
もう一つ。対象はレベルの大きな差はあれ、それなりの専門家である。と言っても、分かってやっているのではなく、中途半端な理解でそれを行っている人が大半。つまり、全体的なレベルが低い。ただし、そうは言っても専門家であり、よほど不誠実でない限り、改善する気持ちはあるはずなんだけれども。しかし、間違ったことを言っている人に対して個別に祈伏しようとする。時に罵倒する。それに対して快哉を叫ぶ人もいるが、反発を招くことも多い。実際、対話で解決できる可能性があるのにそのスタンスを崩さないのは全体を通してみれば損だろう。そのことについて言い立てること自体がネガティブイメージをおび、本来正しいことも違った角度から見られてしまう。
オピニオンリーダーには戦術より戦略が必要。細かいことに固執すると、それが例え正しいことであっても別の方面から足元をすくわれ、退場を余儀なくされることがあるのは過去の歴史の中でたびたびあることである。