効率と豊かさと

現在の日本はおよそ「人間が生きていく」ことに対して必要な豊かさと言う意味ではとっくにその水準を超えている*1バブル崩壊がもららした平成の不況もまた、恐慌ではなかった。国民のほぼ全員が何らかの形でその影響を受けたものの、最大のダメージを受けたものはそのバブルの利益も享受していたのだ*2。しかし、怒りの声は小さく、皆淡々と日常をこなし、生きてきた。台風によって収穫物を根こそぎやられ、明日生きることもままならないレベルまで落ちることは本人の意思が伴わない限りなかなか怒らない。結局のところ、今を不況と認識しているのは社会の全てが上に上がっていかないことがだからだ。
しかし、一方で、仕事ではより一層の効率化がうたわれ、また、経済的な格差拡大の是正を求める声があがる。何故だろうか。
物質文明における豊かさとは結局のところ、「モノ」である。有形無形を問わず、衣食住・性・芸術の欲望を満たすモノ。しかしそれはおよそ今の人間と言う体に留まる限り、これ以上のモノがないところまで到達しつつある。もはや、豊かさに上はないのだ。しかし、もちろんのこと、人間の大部分はその豊かさを体験することが出来ない。真に豊かな社会とは、その豊かさが全ての人間にいきわたることであるのだ。だから、効率をあげ、一人が得られる豊かさの量を上げていかなければならない。
本当にそうなのだろうか。
「豊かな人々」は気づいている。もう豊かさに上がないことを。そしてその豊かさは相対的なものでしかないことに。普段、低レベルの生活をすることで得た資金で一点豪華的贅沢をする人々が増える。成金と蔑む余地もない。決して金持ちではないのだから。デフレにより全てのものの値段が下がってしまったことにより、かえってそれだけの余裕が生まれてしまったのだ。豊かさを象徴する「モノ」の価値が相対的に下がっている。むしろ、常にその「モノ」を手に入れられる人々よりも、手に入れたときの満足感は大きいかも知れない。
そう、相対的豊かさを維持するためには、もはや、上を上げるのではなく、下を下げる時代なのだ。すなわち、「働けど働けどわが暮らし楽にならず」という状態により、少しの贅沢をする余裕も与えてはならない。一方で、一部のボーダーライン上の人を味方にするのだ。雲の上の人ではなく、自分より少しだけ、しかし明らかに差のある人々にその恨みは集中する。また豊かさを少数に集中しすぎると、その末路は革命による地位の逆転に行き着くのは歴史が証明しているから、適切な規模を保つ必要がある。格差の拡大がこうした豊かな人々の心理から起こるのであれば、上からの是正など望むべくもない。
物質の豊かさと精神の豊かさはもちろん一致していない。しかし、今の日本の指導者層を見る限り、物質における豊かさは精神の豊かさを阻害するように思えてならない。それは、我々が求める豊かさもまた「モノ」の豊かさであるからだろう。相対的に維持しなければならない豊かさが「モノ」である限り、「豊かな人々」はその格差を維持するために働くであろう。

*1:ここでは100%そうあることについては論じない。

*2:無論、最後期に手を出して利益を得る前に絶望の底に叩き落された大勢の存在を忘れているわけではないが