感情は思考を阻害する?

ある種の感情に訴えかける記事を読んだとき、とりあえず感情の赴くままエントリを書いてみる。しかし、登録ボタンを押す前に少し考える。果たしてこれは僕が本当に普段思っていることなんだろうか。
そんなことはよくあることだ。その場の感情と言うのは正しく自分の考えをトレースしているとは限らない。だから、必ずしも自分の思っていることに沿った感情が表出するとは限らない。こと、議論の場においては。
感情を喚起する記事は、しかしただこちらが勝手に受容する場合であれば、立ち止まって冷静に考えることは可能だ。いわゆる脊髄反射と言うやつは一度自分の文章を読み直し、また元記事のソースに一回当たってみるなどのクッションを置くことでたいていの場合一時の感情に突き動かされた自分と言うやつを発見することになるだろう。
しかし、積極的な悪意を向けられた場合、それに感情以外で対抗するのはなかなか難しい。対抗することそのものではなく、感情的に反発する自分を抑えることが難しいのかもしれない。もしかしたら、それは悪意ではないのかもしれない。それどころか、正義感の現れであるかもしれない。だからといって沸き起こる感情を不自然に押さえ込むことは自分にとって理不尽なことだ。
そして、文章として感情を表現してしまったとき、それは固着する。少なくとも、登録ボタンを押下した時点で世の中に表出するのだ。議論において、必ずしも感情は無駄なものではない。しかし、感情が自分の思考を制限するのであれば、それはマイナスの要因でしかない。また、他人の感情をむやみに喚起することは、同じく議論を阻害することになる可能性がある。
某T氏のブクマを見て思う。何故あれだけ崇高な目的がありながら、そこに連ねられている言葉は攻撃的で、理由が説明されず、一部の誤りを持って知能の程度を推し量るというものになっているのか。それで目的は達せられるのであろうか。
そう、感情を表現するのが目的であるのかどうか、あるいは相手を感情的にするのが目的であるのかどうか。そうである場合もあるし、そうでない場合もある。もし、目的でないのであれば、一度その感情を発した自分と言うのを見つめなおしてみる。果たしてそれは自分がそうだと思っている自分の姿なのかどうか。あるいは相手に感情を発せさせようとする手段が正しいのかどうかを考える。論理的に反論できなくなったら勝ち、という状況であればよいのだろうけれども。