頭は良くなるか

何事にも努力で超えられない才能の壁があるとしたら、頭のよさについても同様のことが言える。単なる努力だけでは夢を持った子供全員がプロ野球選手になれないだろう。何しろなれる数は決まっているのだ。哀しいかな、持って生まれた才能というものはある。もちろん、そのハンデを乗り越えることもある程度は可能であろう。しかし、超一流となるためにはやはり才能がないとダメだろう。
比べるのもバカらしくなるくらい頭のいい人間というのはいる。才能と努力が相互作用して凡人には理解不能な頭のよさを見せる。あれにはなれない。彼らの思考は過程を省略することがままある。僕らが理解するためには過程が必要なのに。いや、本当は過程はあるのだろう。彼らの中ではそれは自明すぎて説明の必要がないのだ。思考法を真似できないのでは、鍛えることもできない。
しかし、そこまでの天才になることはできなくとも、先人の残した思考方法をトレースすることで秀才になることは可能ではないだろうか。
例えば、成人してからゴルフを始める。自己流でクラブを振り回すのとプロについて多少なりとも習うのでは上達の度合いが異なる。もちろん、その差を練習量でカバーすることは可能かも知れないが、効率は良くない。だからと行ってプロに習っただけでプロ級に上手くなるわけでもない。スポーツはしかし、生活の一部では厳密に言うとない。
思考能力もスポーツ同様、しかるべき導きの元で鍛えることが可能であろう。しかし、思考を鍛えるというのは、ある意味では思考方法を変えるということだ。すなわち、今まで見えていなかった世界が見えてくるかも知れない。そしてその世界は自分にとって望ましいものなのかどうか。
思考能力を鍛えることで、ある程度の頭のよさは大部分の人が獲得できるはずだ。しかし、必要以上の思考能力を欲しないのもまた生き方だ。