電子文書に足りないもの

人間の脳は不思議な構造になっている。というのは雑誌や本の山の中から、「あれはこのへんに書いてあったはず」という曖昧な情報から情報を見つけ出すことが出来るからだ。電子文書になって、何がどこに書いてあったかを一発で検索することができるようになったはずだけれども、依然として「確かあのへんのあの記事の近くに…」的な発想で文書を紐解くことが多い。検索が有効なのはターゲットが明確なときであり、「あのなんだか面白かったあの記事だよあの」のように「あの」の内容すら覚えてないにも拘らず検索できる電子文書はない。
人間の記憶というのはかくの如し複雑さというか、曖昧さを持ったものであり、正解にたどり着く思考の過程はなんとも非効率で且つ愉快である。情報のインプットは目のみならず手でも行われ、「あの辺り」という情報がメタ情報として記憶されるだけだ。もしかしたら人間の記憶というのはその人なりのメタ情報で分類されるもので、メタ情報そのものが分類しやすい構造になっている人が記憶力の良い人なのかもしれない。
なんてことはただの思い付きであってどうでもよいのだけれども、やはり今の人間の記憶方法に適した文字メディアは本という形式に尽きるのではないかと思う。一ページの情報量も適切であるし、厚みでそれを推し量ることも出来る。そしてパラパラめくるときの検索性能。ウェブでの飛ばし読みに比べて遥かに適当に読んだときに興味のあるトピックが目に入ることが多いという個人的感触がある。広告のページはごっそり飛ばすことが出来、また後で読み返すこともできる。パラパラと飛ばしたページすら内容は覚えていないまでも、映像としていくらかは記憶され、前後のメタ情報として整理されるように思えるのだ。
もし、あのパラパラ感を再現することのできるデバイスがあれば、それは本の代替メディアになりうるのではないか。パラパラめくることのダイレクト感はたとえ検索により目的のページに一発でたどり着くことが出来るとしても代替にはならない。そして何より「読んでいる」気分になる。何故か電子文書は「見ている」気分になることが多い。このギャップを埋めていくデバイスが出るのか、または人間がデバイスにあわせ進化していくのか。後者が未来に待ち受けているとしたら、僕は取り残された旧世代の人間になるかも知れない。