ネットでの誹謗中傷を抑制できるか

ネットは自由だ、だから匿名での誹謗中傷も許される、なんて思っている人は少数派でしょう。2ちゃんねるが大部分がそうでないにしろ一部悪意の温床になってしまっているのは「そこに2ちゃんねるがあるから」かも知れません。めったなことでは削除をしないというスタンス。また削除依頼の正当性も勝手なルールに基づいて恣意的に判断されることも多い。だから、2ちゃんねるを持って誹謗中傷の巣窟とすることはあながち間違いではないわけです。
しかしながら、誹謗中傷とは自由な発言を認めることの負の側面であります。既存の社会では情報を発信する手段が限られていたことで抑制されていたわけです。これはつまり母数が少ないことにより訴えるなりなんなりする手間と効果が見合っていたからと言えます。あるいは媒体が自らの価値を貶めないために自主規制しているということもあります。それがエディターとしての責任というわけです。もちろん、責任を取るつもりですれすれの記事を掲載するということは良くある話で、週刊誌の飛ばし記事なんてのはまさに誹謗中傷の巣窟。ところが、インターネット時代になり、誰もが自由に全世界に向けて情報を発信できます。これは今まで様々な障壁により情報を発信することが出来なかったという人々にとってはまるで頚木から解き放たれたかのような効果をもたらし、世界に向けて羽ばたいていったのです。その一方で、誹謗中傷や犯罪行為も解き放つパンドラの箱だったのかも知れません。底に希望は残っているのか。

この方が恐怖を覚えることなく生きて行かれる社会というのがどのようなものなのかはわかりませんが、悪意の対象や中立的第三者悪意剥き出しの誹謗中傷発言をその管理する設備を用いて掲載することを当然視する発想自体に、言いしれぬ「甘え」を感じます。

「既存メディア対ネット」ではなく「良識対悪意」だ: la_causette

これは僕が2ちゃんねるとコメント承認制: la_causetteについてつけたコメントをきっかけに書かれたエントリかと思います。正直あのコメントはちょっと書きすぎだったきらいはありますがそれはさておき、この一節については同意せざるを得ません。というかこの点に関して言うと僕も同じ意見ですから。一方で

自分たちの悪意をその相手方や世間は受け止めて真摯に応対すべきであるという発想の延長線上には、自分たちが精一杯悪意を振り向けたのに自分たちに屈しない者に対して脅迫行為までしてしまうメンタリティがあります。

「既存メディア対ネット」ではなく「良識対悪意」だ: la_causette

と単純に悪意認定する姿勢にはどうも共感できません。「応対すべき」という発想は僕も間違いだとは思いますが死ぬ死ぬ詐欺(これもプロパガンダ的なフレーズでイマイチ好きにはなれませんが)の問題については「善意への期待」を発信した以上付いて回る責任があり、何も発信していない個人が突然誹謗中傷されたのとは話が異なります。この問題は結果として野次馬根性を持った人のなだれ込みによってあまり愉快でない状態になることはありますし、そこで語られる社会正義とは騙りであり数の暴力による正義の押し付けに過ぎないことはよくあります。それは否定しないものの、良識と悪意という対立構造をもって論じるのであれば、当初存在し、また穏健派の論者が常に意識しているであろう「社会の良識に照らしておかしい」という考えすらも悪意と認定してしまうこの単純な色分けはそもそも矛盾しています。メディアが作る「世間の良識」こそが真の良識だといっているようにも思えるのですが果たしてそうなのでしょうか。多数派が常に正しいのは(特に最近は)モラル以外の部分で存在する利益の部分についてだと思えてなりません。


さて、僕が実名匿名と言っているのはあくまでそれが個人を識別し、あるいは評価するラベルとして常に有効なわけではないことが主な理由ですが、以前のhttp://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20070215/p2にも書いてある通り、裏側での規制の仕組み自体は将来必要になってくると確信しています。
だからと言って、盲目的にそれっぽい発言を削除すれば責任が果たされるのかというとどうなんでしょうか。表現の自由と誹謗中傷は紙一重であり、また誹謗中傷に当たるかどうかはまず第一に誹謗中傷されたと感じる当人が判断すべき話ですから、何を持って誹謗中傷とするのかの判断というのは非常に難しい。だからちょっとでも微妙な表現を全部削除しないと問題があるとなれば親しみを込めた「バカ」すら発言不能になります。
という話もちょっと誤謬があるというか、本来いわゆる「匿名掲示板」と個人個人が持っている領域では話が別なはずです。そこにどういう文脈があるかどうかでも異なってくるし。とりあえず現状では「全世界のお友達との他愛の無い会話」と「全世界への情報発信」が区別できないのが仕組みとしては問題かも知れません。この区別のないものがウェブであるのであれば、構造上いかんともしづらいのですから新しい仕組みを考え出すしかない。
ここで必要になる仕組みというのは例えば国民ID的なものを使うのであれば、個人を特定すると同時に全ての利用者側からは特定できない必要があります*1。例えば図書館の貸出履歴から危険思想の持ち主を判別するような仕組みは望ましくないでしょう。あるいはインフラを提供している業者により誰がどのページを読み、どういう嗜好があり何を買ったかが流出してはならないのです。誹謗中傷の観点のみで判断すべき問題ではありません。韓国がそうなったからといって日本も追従うする必要はないわけです。逆にそうあるべきと考えるのもよいでしょう。21世紀の近代国家たるもの国民は細かく統制すべきだという点を規制の必要性の観点から訴えて実現すればよいのです。
インターネットというインフラを野放しにすることで起きるマイナス点を出来るだけ減らしていかなければならないのはもちろんですが、現実の世界における規制の手段を単純に適応するというのはインターネットがメディアではなくインフラであることを過小評価しているのではないかと思います。
訴えられるから誹謗中傷を止めるというのもレベル感の差異こそあれ、モラルに期待した手段であるし、誹謗中傷だと感じることも人それぞれであるから、あまりに低レベルなそれを除いては有効な抑制手段はないんじゃないでしょうか。匿名者の実名を暴く、とか、ネットに一切関係ない人を実名を出してあげつらう、とかそういった論外なものは抑止できるかもしれません。それについては基準がわかりやすいので逐一削除していくことも、訴えることも現状の枠の中で可能だと思います。

*1:例えば政府公認の掲示板書き込み用ID発行システムにより個人ID⇒ワンタイムIDへの変換を行い、事件がおきたときはワンタイムIDによる個人の同定のみ行う、とか。逆引きはできないように。