僕は論理を愛す。理論ではなく。

もう一つの切り口として。
言葉の定義であーだこーだなるのも馬鹿馬鹿しいのでオレ理論(という時点でメタ議論になっている気もするけれど)でいかせてもらうけれど、理論ってのは

  • おおよそ客観的事実と観測された事象について、論理的な整合性のある説明をするためのもの
  • ある事象に対しての論理的な説明を行い、その将来観測されるであろう客観的事実を予想するもの

のどちらかなんだと思うんだよね。ここでの「論理」は理論を導くためのツールに過ぎない。論理的に正しいというのは、単に今まで提示した言葉たちに整合性が取れている、ということに過ぎないわけです。
だから、「理論的に正しい」と言うのは事実を認定しているのではなくその切り口での整合性を保証しているだけです。だから、切り口が変わり、観測される客観的な事実が変われば整合性が取れなくなる。つまり、理論を受け入れるというのは、その世界に対する切り口と、それに伴う観測の方法を受け入れることに他ならないのではないでしょうか。
現代社会において、例えば自然科学のような最近その思考方法、すなわち切り口がクローズアップされている一つの理論体系がありますが、科学を信じる人と言うのはその切り口と観測方法を信じているわけですよね。ちょっと言い方に語弊があるかもしれませんが。
理論を愛すってのは、これは宗教ですよ。
理論ってのは絶対唯一のものがありうるというものではなくて、ただ、社会的に大部分の人に認められたものってのはあると思います。世界に対する切り口は価値観などという言葉と共に時間や歴史に依存して移ろい行くものであるから、理論が受け入れられない=相手が論理的ではない、というのは一概には言えません。
理論を打ち立てるためのツールとしての論理性を愛することは重要だと思うんですけれどもね。