あるがままとは。

社会っていうのは、人間と人間が作り上げた規範とその上で行われる交流によってなりたっているわけですよね。大雑把ですが。新たな命が生まれて、動物としての人ではなく、色々な思いを抱えて生きる人間に育て上げるのは、社会の役割であるし、その最も身近な体現である家族の役割です。確かのその個にとって何が幸せなんだかはすぐにはわからないかもしれないけれども、わからないから個性に任せると言ったとき、それは単なる責任放棄。本能のままに生きろ、すなわち社会生活に適応させる機会を奪うということに他なりません。人間として生きるすべを自分で身につけることなんてそうできるものではありません。少なくとも幸せな方法では。「動物としての人」らしくあれ、なんていうのは未来に対する責任放棄ですよ。少なくとも、先人がここまで作り上げてきたものによって自分が存在しているということについて全く無視しているわけです。
個性なんて規範の先に生まれるもので、何が個性かわからないまま、ただ衝動にしたがって生きてみたり、人の嫌がることをやることが個性だと勘違いしてみたりすることは個性を発揮しているのではなく、世に対する恨みをぶちまけているのに過ぎないでしょう。
というのはhttp://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/24197.htmlを読んで思った話。

どんな子も、大人から「あるがままに認められる」ことが大事だ。
良いことや頑張りを「ほめる」だけだと、子どもは息苦しく感じ、弱い面を見せられなくなるかもしれない。
大人は規範意識の高い「良い子」や、学力競争の勝者になることを知らず知らずに求めていないだろうか。

確かに、ここに書かれていることは正しい。正しいけれども、この言葉は額面どおりに受け止めてよいのかな。

子どもの権利とは何かを突き詰めて考えると、人としての成長や発達を大人が保障することにあると言える。

この「人としての」という言葉のあまりに抽象的であまりに無責任に過ぎることといったら。社会に相対していない態度は。社会に対して踏み込んでいない時点で全然突き詰めて考えていない。
大人として保障すべきなのは、「社会に適応するための能力を身につけさせる方向にアプローチすること」「その上で見つけたやりたいことを可能な限り縛らないこと」であり、それが人間としての成長なんじゃないかと思うのです。
あるがまま、とは何が自分の「ある」なのかをわかってからの話ではないでしょうか。