「コミュニケーションの目的」の裏側

この際だからついでに書いておこうかな。
僕はあまり人付き合いが好きではなく、友達と普通に話したりとかはするけれども、一人でいることは全然平気で。むしろ変な人間関係に巻き込まれたりするのはめんどくさいし、興味の無いところに連れて行かれるのもしんどい。そう思って長年生きてきたのだけれども。
ただ、ひとつ、音楽を続けることについて、どうしても一人でできないことだったから、また、僕のとても大事な位置を占めているものであるから、そこだけで結びついている友達は大勢いた。でもそれも音楽がつなぎとめる人間関係。それに過ぎないと思っていたのだけれども。
あるとき、事件がおきて、立場上どうしても巻き込まれることになって。半ば面倒だと思いつつも、本当は踏み込みたかったのに今まで踏み込むことのできなかった人間関係へ踏み出す一つのきっかけだったんだろうね。そこで知ったのは、僕がそれまで表面的と思って行ってきた人付き合いが、もっともっと深いものであったこと。僕の側が踏み込まなかったことで見えていなかったもの。多くの人が裏で支えてくれていたこと。それを知ってしまったときの気分はあまり思い出したくも無いけれど、今までの人生をおもってやさぐれた。自分はどれほどのものに囲まれていることに気付かなかったのだろうかと。
そしてそのあと一つの出会いがあって。人とコミュニケーションすることは、困難で、辛くて、そして嬉しいものであるかを知り、そしてそれに伴ういくつかの痛みを経験して。もしかしたら、その痛みはそれまでのコミュニケーションのとり方をキープしていたら味わわなくても済んだのかも知れなかったけれど、それがなかったらきっと僕はずっと自分がなにものであり、何をしたくて、どういう人に囲まれているかを一生知らずに一人で生きて行ったかも知れない。
今述べたことは、出来事としてはほんの小さなことで、とても大げさに語っているとは思っているんだけれども、人のそういう思いを目を瞑って見ないようにしていた僕にとって、初めて光を見た、そのくらいのインパクトがある出来事だったのです。
長年染み付いてしまった人付き合いのやり方を、そう簡単に変えられるものでもないから、少しずつ、進んで行こうと思っていますが、避け続けることからは喜びは生まれず、月並みな話に思えるかもしれないけれど、痛みを味わった分だけ、強さを得ることができ、また人生の楽しみを見つけることができると今は信じています。
きっかけを得ることができた僕は幸運だったと思うけれども、そこに到るまでに、自分のしたいことをし続けるという努力はしています。それが結果としてコミュニケーションを生み、人間関係を生み、僕を変える事になった。表層的なものでも良いから、少しずつ接点を増やそうとしていると、きっかけは突如やってくる。そう思って、これからも少しずついろんな人と、いろんなコミュニティーと接点を作っていきたいと思っています。