「コミケにはお客様に対する意識が足りない」発言への対応に見えるウェブの可能性

普通に「イイハナシダナー」と思った僕は何かに毒されているのでしょう。
コミケと「お客様」意識 - Togetter
事の発端は

という発言。まあこれ自体はちょっとコミケというものを知らない(偉そうに言っているけど僕はコミケに行ったことがないw)人の普通の発言だと思うんだけど、これがまたtwitterなんかで言った日にゃあ…ということの典型のように超絶な数のDISりがなされるわけですね。ここまでテンプレ。
ただ、これの良かったところは、当の本人が「無知」であったことを反省し、理解を示そうとしたことによって丸く収まったこと。ここでの「無知」というのは必ずしも悪いことではなくて、単に知らないだけだったりしますよね。
これを下界から眺めると「ああまたオタクどもがいたいけな素人を攻撃しているよコエー」に見えてしまうわけですし、実際そうでしょう。

でも、こういう「無知」による誤解はきちんとなくして行かないと、最後にはろくでもないところに行き着いてしまいます。実際、コミケに「お客さん」が来る現状というのが最近問題視されています。一方で、参加者の悪いところも昔に比べれば言われるようになりました。単に情報が閉じなくなっただけではあります。

かつて、こういう問題は事前には「ちょっと詳しい知り合い」がたしなめるくらいしか解決できなかったことです。その世界のルールを知るためにはそこに入るしかなかった。しかし、今は僕もそうだけど、実際には参加していない世界のルールを知ることができる。すごい!
残念なのは、コミュニティというのはどうしても免疫反応が先に出てきてしまうので、異種からのファースト・コンタクトへの対応は「叩く」になりがちなことです。しかし、それを恐れていては異種とのコミュニケーションは取れません。今回良かったのはやはり侵入者側がその世界のルールを受け入れた、ということに尽きます。悪意がなかったというのも良い点でしょうね。

「二度と来るな」、とか「死ね」とかそういう反応があったときに、人がどう立ち回るか。こればっかりはパーソナリティの問題と言わざるを得ません。これにまともに対応できるのは十分理性的な人だけだろうけど、逆に言うと、こういう原始的な感情での反応をする人は十分理性的な相手ではないわけで、そこにギャップが出ます。仮に非理性的同士の戦いが勃発したら相打ちを望みたいところです。でもコミュニティ全体が非理性的であれば、それはもう一段上の社会全体というコミュニティにとっては排斥すべき存在とみられるのでコミュニティ自体は理性的な存在であろうとする方向性を持っているはずです。であるならば、侵入者が十分理性的であれば、そこに対話の余地は必ずあるはずです。そして、一見罵倒しているだけの人も、実のところ、そのコミュニティへの忠誠と一般的な免疫反応がそれをさせただけである、ということもよくあることです。一方的な悪意というのはそう簡単には抱けるものではありません。

コミュニケーションの敷居が下がったことによって、こういう違うコミュニティへの準備のない侵入行為ということが日常茶飯事になっています。一見コミュニティ側が門を開いたように見えていても、実際には特定少数向けのアプローチだった、ということから起きる事件も多発していますが、それも含めて、異文化交流が盛んになっていて、いつしか世界はひとつに近づいているのではないかという気がしてきます。

いわゆるDQNがIT化して、その行為が可視化されたのと同様に、それがDQNだと思う側の気持ちも可視化されている、ということは重要なことです。かつてはそこにコミュニケーションが発生することすら稀でした。DQN行為をブラックな過去として抱えていて、そういう話題が出る度に居心地が悪くなってしまう人って結構社会に相当数生息しているのではないかと思いますし、そのままのノリで会社経営までやってしまって間違って入った一般人にウェブで糾弾されている会社社長とかもいるんじゃないかな。

ここ最近特に意識するのは「意識が高い」と思って上から目線でウェブでの活動をやっているインテリ層(一応そこに属す身として自虐的な意味合いもあります)というコミュニティもそろそろぶち壊れていくんじゃないかな、ということです。地震から原発問題、大阪市問題から国政に至る流れにおいて、主役を張ったのはネトウヨでした。発信していないから可視化されていない、いわゆるインテリとはちょっと違う層の人々も、だいぶ見えるようになってきていて、来年には猫も杓子も自分の思想について語る世界ができているのではないか。

そうなってきた時に、世界をどのように誰がリードしていくのか。これは重要な問題だと思います。人間はどうしても強い言葉に従ってしまいがちですが、重要なのは共感ではなく理解なんだと思っています。共感を撒き餌にして理解を飛ばしてしまう、というのが人を洗脳する最も原始的な手段かと思いますが、そういった動きをどのように抑えていくか。

古来から、共感は人を幸せに、あるいは不幸にしてきました。同様に、人間としての誇りも人を幸せにしたり不幸にしたりします。尊厳という言葉は大変難しい。社畜でいたら幸せなのに、尊厳を求められて不幸になることがあります。幸せというものは人それぞれ。理性的な社会であれば幸せが手にできるのか。それは幸せの定義が一様でないと成り立たないことだと思います。人間とは何か、生きる意味とは何か、そういったものをどんなに啓蒙していってもそれが社会全体の幸せにつながらないのはある意味人間という存在がもった原罪のようなものです。そしてそれこそが人間をここまで大きくしたのでしょう。

どうも話が大きくなってしまいましたが、来年はこのようなコミュニティの壁が決定的な危機を迎えるんじゃないかという予感がしています。思考のダダ漏れ度が極まってきて、一人ひとりの本音の差異がはっきりとしてきています。そのような状況において、建前を守った強固なコミュニティがどこまで存続できるのか。コミケ一つとっても建前の壁は外部から剥がされそうになっていますよね。このような外部からの侵入に対してきちんと守りきれ、また、その考え方を広く伝えることができるコミュニティが力をつけていくことで、政治が変わっていくのではないか。オタク界隈の政治問題(表現規制やら著作権やら)についても、本来一大勢力として組織できるんじゃないかと思っているんですが、まだコミュニティの軸が太くないんだろうね(本来はそこを東が担うことを期待されていたはずなんだけど、彼は結局「現代思想家w」であってオタクの代表ではなかった)。
一方で、リア充コミュニティ(集っていないけど空気として存在する)が反原発言いたいだけの反原発に取り込まれてしまっているような動きもあるじゃないですか。
そういうコミュニティに対してどうアプローチしていくのか、というのもこっち側の問題としてあります。もはや、どちらの勢力もお互いが不可視ではないのですから!

medtoolzさんの今年最後?のエントリにこうあります。

Twitter の今、意見の対立する場所にはたいていどちらかの意見に与する専門家がいて、エビデンスに基づいて、「無知な素人」を哄笑したりする。そうした人を味方につければ強力だし、喧嘩において、とくに誰かを哄笑するための道具として、証拠に基づいた論文というものはずいぶん便利ではあるのだけれど、そうした人とは個人的に、一緒に仕事をしたくない。

http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1424

それは仰るとおりなんだけど、今ってそういう「哄笑」の敷居が下がっちゃっていますし、「陰口」が陰口にならない状態でもあります。むしろいろんなことを笑って照れて仕切りなおすというハードルを下げたいですね。笑われて怒る、というのはコミュニケーションの余地があると考えたいし、できれば「馬鹿にする」のではなく、明るく笑って対話したいものです。

来年も宜しくお願いします。