本音で差別をし、建前で平等を語る

ロマの話は正直実感を伴わないのでありきたりの正論しか言えないけど、例えばホームレス図書館問題なんかは民族問題と言う軸がないところを除けばおんなじかな?
理性でこの手の問題を語るのは比較的簡単で、現実の問題を受け入れつつ、どう言う未来を築くかのビジョンを語ることになると思う。問題は、差別の問題は理性で片付かない感情に根ざした部分があることかな。たとえば、ある程度の規範を守ることによってえられた現代人としての生活において、その規範を守らない異質な存在が侵食してくることへの嫌悪。というと難しいこといってるようだけど、単に自分は他人に臭いと思わせると迷惑だから綺麗にしているのに臭くて汚い奴はくるなと言うだけの話で。それを「差別だ」と片付けて良いのか。ホームレスの事情をどこまで斟酌しなければならないのか。仮に自ら規範を捨て去ったのであれば、規範を必要とする場にくるべきではないし、仕方なくホームレスをやっているのであればそこから脱却するための施設は別に必要だろう。と、この程度の話でも原理的には差別的なんだろうなあ。これは考え方の一例であり、僕が世間に訴えたい話ではないので念のため。

さて、僕は、人の本音と言うのは感情によって醸成された思考だと思ってる。いわゆる死刑廃止論者が犯罪被害者になった時の豹変なんてのは感情による本音が理性による建前を飛び越えちゃったから起きる。だから、一見矛盾しているように見えたり、整合性が取れてない話の中にもそういうせめぎ合いを発見したりする。というか、自分自身そうであると思う。
たまに本音をストレートに発露すると炎上しかけたりするよね。

時には「全人類は等しく平等であるべき」と唱える人がそれが理解できない奴は死ねって言っちゃう類のやつ。あれもその手の話で、結局のところ、現実の問題と戦う時にはある程度本音ベースで議論を戦わせないと、「俺もそう思うんだけどね」だけで終わっちゃうんだよね。だから、あのロマの話ってのはすごい大事だし、ああいう話を実名顕名ですると短絡的に差別主義とか言われるのは何かのハードルが上がっちゃう気がするんだよね。
とはいえ、ネットで不特定多数に向けてあの手の話をするのはやっぱり難しいと思う。本音と建前ってのは究極の文脈依存型思考だと思うし、文脈を失わせることに熱心な反論者が居がちなネットの言論空間においてはそれを正常に行うことはできないからね。

建前だけで現実は十分運営できることもあるんだけど、実は本音の部分で目指すところが違うととんでもないことになる、ということがあったりするよね。政治の世界では日常茶飯事であります。それって日本だけ?だから、建前だけに終始する議論って本当は怖い。真の目的を確認しあえない。
建前は守るべき大前提だし、それを共有していられる限りは本音を発露しつつ、擦り合わないところ、つまり感情的にうまく折り合えないところとか、現実の問題に建前だけでは対処できないところとか、そう言う部分を議論できるような場ができればいいのになあ。もちろん、それを公開でやるのはバカ。そこでの過程の議論は感情的ものだろうし、ヘイトが飛び交うこともあるだろうから。
ま、ウェブでやらなきゃ良いんだけど、結局のところウェブ言論人にはウェブでしかあわないんだよなあ。
たまに実名でヘイト丸出し本音をベースをひたすらアウトプットしている人がいるけど、そういうのは建前との差分としてありがたく確認してから捨てるってのが良いのかな。批判とかはするべきなんだけどそれは周りに対して間違ってることを伝達するためであり、たいがい本人に対しては無駄だよね。でもそう言う人がいるからこそ現実の問題を議論できるんじゃないかと思ったりはします。