相手が先にやったから、自分もやり返して良いんだ

と言う考えが、極めて幼稚に見えてくるのは、そこに「相手が先にやった」という理由しか見えないからなのかもしれない。
殴られた、そのことに対して、自らが相手を殴ってしかるべきと言う判断基準に触れたから殴るのであって、順序性はトリガーをどちらが引いたかを示しているに過ぎない。つまり、相手の行為に対する評価として、自らの基準により、行動を起こしただけのことである。だから、その行為の責任は、自らの判断に帰すべきであり、相手が何をしたから、と言うのは主体的な理由にはなり得ない。
例えば、正当防衛が社会的に許されるのは、相手の行為に対して「放置しているとこちらの生命に関わる」と自分が判断して行動したことが、社会的に容認されているからであって、行為に責任を取らなくて良いわけではない。行為の責任が社会的に軽減されているだけだ。
だから、相手が先にやった「から」、ということを理由に仕返しをするのは、仕返しという行為への免罪符にはならない。むしろ、行為そのものが絶対的に評価され、裁かれる。喧嘩両成敗とはそういうものだ。無抵抗たれというのではなく、相手の行為に対する反応が果たして適切であるのかどうかを吟味した上で、自分の責任に於いて行為を行うべきだ、と言いたい。
議論において「お前が先に罵倒したから」「馬鹿と言う奴が馬鹿」というような言説が周りを呆れされるのは、このような理由からだろう。行為の理由を自分以外に求めると、フレームに陥る危険性がある。必要の無い罵倒合戦はあまり見たくはないし、したくも無い。