メディアが広告から脱却するには

新聞も、テレビも、雑誌も、ある程度の規模を持ったものはその収益のかなりの部分を広告に依存している。日本の黒幕は電通陰謀論もいろいろな意味で世論を支配しているのが広告主とメディアの関係性である、ということを重大に捉えると、あながち妄想ではあるまい。
金主との関係性が一度確立されると、そこから解き放たれることは容易ではない。上場企業が株主の顔色を窺うのが嫌で自社株買いをして上場を廃止するのは、それだけの資金が無いとできないことであって、そうでない限り、株主の意向を無視することができない。メディアが今の規模をなんとか維持するために広告収入が不可欠なのであれば、広告主の意向を無視することはできない。マスメディアに公正な何かを期待すると言うことは、広告からの脱却を図るしかない。
マスではないメディアが、それがジャーナリスト精神を持ちうるのかは別として、存在し、発展してきているのは確かなことであるけれども、その運営が少しずつ組織化されていくにつれ、手弁当ではなく、収入源を模索するようになる。そして、大抵の場合、その収入源は広告だ。たとえ、Googleがメディアに対して圧力をかけるようなことが未来永劫なかったとしても、企業が掲載先として選ばないことにより、収入に多寡が生じることはある。何しろ、Webの世界では、代わりはいくらでもいるのだ。
それでも、新聞や雑誌は直接収入としてのメディアの値段があって、それだけでペイしようとしているものもある。無論、広告付きよりも自由度は増しているものの、多くの部数を獲得するには至らない。
いろんな人が、偏向した新聞はいらない、捏造ばかりするテレビはいらない、という。それはつまり、広告や特定勢力への阿りをするメディアは要らないと言っているわけだ。それでは一体、どんなものが必要だと言うのか。マスメディアなど要らないと言うのであれば、そこで適切な代替手段を考えているのだろうか。報道などいらない、のであれば一貫性はある。ウェブ上で事足りるから、と考えているのであれば、一体そのソースがどこから出てきているのか、ということをもっと追求すべきだ。大抵の場合、一次ソースはプレスリリース的なもので無い限り、忌み嫌うべきマスメディアからなのだから。
この状態を打破するためには、広告に依存しなくても維持できるだけの金額をメディアに対して払うこと、と言うのが一つの回答かも知れない。少なくとも、初期のメディアはそうだったはずだ。わずかな新聞代を惜しむ現状でそれが望めるものではないような気がするけれども。または、もうバイアスがかかりまくっていることを前提に、真実を判定するための努力を読者がするか。これは、非常に時間のかかる作業であり、また、ある一定以上の能力を必要とするから、全員ができるものではない。分かっている奴は最初からある程度裏も含め読み解けるだろうし、そうでない多数の人は額面どおり受け止める、となると、「俺だけが真実を知っているんだ」状態になるだけである。
ただより高いものは無いという話は主にこういった話に適用させるべき言葉なのだろう。必要だと思っているのに費用は負担しない、では社会は動かない。メディアにばかり文句を言う人のどのくらいがそのことを認識していないのかが気にかかる。マスメディアが死滅すれば社会の風通しが良くなると考えているのだろうか。そこが最後の砦かもしれないのに。
このメディア過渡期において、ある程度社会の特定勢力の圧力から逃れた状態で情報を発信することのできるメディアがあり、相応の費用を負担することでそれがマスに育っていく可能性が見えるのであれば、費用を負担したいと漠然とした思いがある。某国営なんだかどうだか良くわからない放送のようなリーズナブルでない負担であれば決して負担したくは無いのだけれども。どうにかして、何かに依存しない、新しいメディアを作れないものかな。
とはいえ、話は巡り、株主よろしく金主たる読者に阿るメディアが生まれるだけかも知れない。内容ではなく、理念にお金を出すと言うのはなかなか難しいものだ。