原爆資料館の印象

両親とも広島出身の僕は必然的に、原爆資料館に行った。うちの両親はあまりウヨサヨ関係しない、ある意味世間離れした職業についているのであまりその点でのバイアスはなく、ただ、被爆者の身内ということにおいて、原爆には関わっている。
幼少のころみたその風景はあまりに凄惨で、とても子供に見せるようなものではなかった。だからこそ、子供が見るべきなのだろう。実際に悲惨なものを体験することはあまりに大きなトラウマになり、決して良いことではないけれども、それを追体験するような、そのくらいのことは幼少期の感受性においてはやはり多少のトラウマにはなるだろうけれども、そのトラウマは、多分同じことを繰り返さないためには必要なものだ。
とにかく、これは人類がしでかしたことの記録として必要なことだ。そう思った。
高校の修学旅行で再び行ったときだから5〜7年後くらいか。正確には覚えてないけれども、あのときの記憶から、同級生を怖がらせつつも、その悲惨さを見据えて欲しいと思った。しかし、あろうことか、展示の内容が生ぬるくなっていたのだ。高校生の感受性と二度目だから衝撃が少なかったのか、と最初は考えたのだけれども、どうやらろう人形やら写真やら、とにかく不気味さを感じるものの展示が減っていたように思えた。凄惨さが減衰していた。それでも、見たことのなかった同級生たちは人間の残酷さに思いを馳せていたと思う。本当は、こんなものじゃないんだ。僕はそう叫んでいたけれども。
原爆資料館は、決して歴史の一ページではなく、人間が、人間にできる行為がどれくらいのものかを反省しつづけるために必要なものだ。別の知的生命体が人間にコンタクトしてきたとき、この仕打ちを見えて救いようのない存在と判断するかもしれない。あるいは、反省を糧に生きる種族だと見なすかもしれない。僕は人間としては後者でありたい。これを見て、ショックを受け、二度と起こさないように努力する、そういう気持ちを持って欲しいと思う。

「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」

中国新聞 地域ニュース - 資料館展示見直しに中韓の声

上記で述べた通り、展示の内容を検討するのであれば人類に負の思いを刻み込むことでなくてはならない。アジアがどうとか、民族がどうとか、そういう観点が出てくること自体が間違っている。上記のコメントは、原爆投下という行為と、それに伴う政治的な結果のみについてしか言及していない。本来原爆資料館があるべき姿と言うのは、政治的な結果などとは全く違う場所で、どのようなことが起こったかを伝えるものだ。
原爆投下は、政治的には必要だったのかもしれない。もしそうだとしたら、だからこそ、そのために起こったこと、それにより犠牲になったものに直面することで、二度と同じ悲劇を起こさないと誓うことこそが、資料館を見て、人類として共感すべきことだ。事実から目を逸らすことで単なるその場の政治的決着の手段という評価が行為としての正当化にまで発展しないことを願ってやまない。

via http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/981867.html