「何を言ったか」を毎回評価できるほど僕らの人生は長くない

一周回ってここに来た、という感じもするけど、ネット(における情報伝達)の有り様というのはネット黎明期と今この時点でもだいぶ異なるんじゃないかと思う。
重要なのはかつて「メディアや権威によって封じ込められていた発言」というのは消え去り(つまり、公開だけならだれでもできるようになり)、その代わりクソみたいな情報もフィルタリングさらずに溢れ出ている、という現状。そういう場において、「何を言ったかが重要」なんていうのはのんき極まりないと思ったりもする。

私たちは「誰が言ったか」に影響されやすい生き物だ。発言の内容にきちんと向き合うのではなく、発言者の人となりを気にしがちだ。権威的な人物の言葉であれば安心するし、そうでなければ耳をかさない。

ネットでは「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」/匿名主義の信条 - デマこい!

ここ3年ほど(それが意味するのは何かわかっていると思うけど)で僕が痛感したのは、ネットに飛び交う情報の何を選びとるか客観的に判断することのできる人は少ないということ。僕も例外ではないけれども「自分の考えに近いもの」が無数提示されているという状況は罠だ。権威を尊重しないという風潮が強くなっていることも一役買っている。

最近よく言っていることだけど、僕は「誰が言ったか」はそういった雑多な情報から有用なものを選び取ることにはとても有効な判別手段だと思っている。しかしそれは権威に盲従することを意味していない。ウェブでは「誰」が信頼の置ける人間なのかを評価することにおいて、「権威主義」から自由になることができる。
ここで言う権威主義とは「その道について正しい知見を持っている結果として、第一人者(とは限らないが)と見做されていること」という物事における本来の権威のことではなく、「XXさんに逆らったら学会から干されるから逆らえない」的な政治的圧力としての権威のこととするとわかりやすいと思う。悪い意味での立場と言っても良いかと思う。

権威の盲従から自由になるために「何を言ったか」を評価することは非常に重要。ただ、常に何を言ったかを評価するだけの時間は個人にはない。なぜならその道の権威が一生をかけて辿り着いた道筋を同様に辿ることは同一の才能を持ってしても一生かかるからだ。もっとも、人類には過去明らかになった知見を教育という手段で効率よく伝達するということを繰り返してきた。これにより、ある程度の評価はそれほど時間をかけずにできるようになる部分はある。ただ、そのためにはその権威のいうことをある程度は信頼した上で行う必要がある。

結局のところ、全ては他人の見解をどう評価するかにかかっている。最終的にはそれはロジックとデータに帰結するだろう。信頼の置けるデータやロジックを提示している人をある程度信じていくのがネットの大海で溺れ死なないためのコツだと思う。

僕が匿名であるのは、単に大体的に実名で活動する気がないだけであり、常に「何を言ったか」だけで評価してほしいということの表明では決して無い。むしろ、「NOV1975が言っているのだからこういうことだろう」という評価をされたいくらいだ(もっとも、オピニオンリーダーを目指しているわけでもなんでもないのでどうでもいいことなんだけど)。

本当に他人を共感させるようなことを書ける人間は、自分が「誰である」ということから逃れられないのではないかな。