「反」差別という言葉がすべてを台無しにしているような気がする

差別をしませんよ、という表明は素晴らしいし、世の中そうあるべきと主張することも素晴らしいことだと思う。それでもなお、なんかちょっと奥歯に物が挟まっちゃうよなあ的なもどかしさを感じるのは、その運動が他の何かを排除するように見受けられる行動をしばしば取るからなんだよね。

一番問題なのは、何かに対する「対立姿勢」を明確に取るようなことがある場合。しばき隊の悪いところの典型がそれで、結局のところ自分の思想と相容れない相手と闘争しているだけの当事者を無視した自称知的階級のお遊び(ただし真剣である)に見えてしまうところなんだろうなあと。
それを象徴しているのが何かにつけ「反」という文字がついて回ること。これは反原発脱原発って話の時にも思ったことだけど、反って結局オレはそれが気に入らないという以上の何物でもなく、価値観の否定にほかならず、寛容や他者の需要ともっとも遠いところに存在する思想の表出であって、それが「差別をやめよう」と結びつくことの違和感がものすごくあるんですよ。「反差別」って結局差別をするお前らを撃滅するってことになりかねない過激な文言だよね、ってこと。もちろん、反差別って言っている人がみんなそう考えているなんて思っているわけではないよ。でも、色んな所で発生している揉め事を見るにつけ、結局相容れない思想の人間をしばくことそのものが目的になっている人はそれなりの数はいるんだなあとの印象を受けてしまったわけで。

社会問題に対する闘争ってのはそんな甘いもんじゃないと言われそうな気もするけれども。

でも、憎悪の連鎖から抜け出すためには、それが勝敗のある戦いになってしまってはダメなんだと思う。人々の心のありようを地道に変えていく一方で、差別を生み出す元になる問題(貧困であるとか、因習であるとか)をなくしていく社会づくりを目指すアプローチが長い目で見れば最適ではないかと思うし、それはそれとして、差別はいけないことだということを多くの人が正しいと見なしているよ、という社会的なコンセンサス作りを社会運動を通じて行っていくことが大事なんじゃないかな。

日本においては(まあ諸外国も例外ではないと思うけど)、例えば女性の権利というのは理念的には勝ち取られているけれども、現実としてその価値観を鼻で笑うような人がたくさんいる、というような現実を考えると、表面上の解決(これはしばしば心理的抑圧を伴う)ではなく、社会としての価値観の転換がゴールであるだろうし、そのためには力づくで抑えこむという手段はもっとも劣悪だと思うんだよね。

今現実に発生している問題に対して正面から取り組んでいる人には頭が下がります。