描写の過激さと目的について(はだしのゲン閉架報道に思う)

「はだしのゲン」は描写が過激だと思う、平和目的だからといって、どんな表現でも許される、なんてことはない - Togetter
子供の頃、原爆資料館に行った。ほんとに子供の頃。当時の展示はその後高校の修学旅行で行った時に比べて非常に過激だったと思う。昭和50年代。もう子供の頃の記憶でしかないので証明はできないけれども、修学旅行で行った時に「こんなにマイルドだったっけ」と思った。それでも気持ち悪がっている同級生はいたけれども。

事実をありのままに伝えるというのはこの場合、残虐描写と紙一重であり、それが人間の思考、あるいは思想への影響の振幅に違いがでるとは思う。
同じ戦争の爪痕に接したとしても、「俺は地獄を見た」というのと「過去の悲惨な事件に学びました」というほどの違いはある。

マンガ、あるいは小説や映画や音楽などの表現には、そういう人を動かす力がある。だから、その力を適切に発揮することが必要なのだ、という考え方は何も珍しいものではない。特に、マンガはそういう表現が容易いことから常にそういった考え方の人に槍玉に挙げられるものだ。

マンガによって「洗脳」された子供が長じて現代の社会に都合の悪い行為をなす、ということは危険とみなされるかもしれない。

でもね、はだしのゲン不都合な真実なんかじゃなくて、日本人みんなが知っていなければならない過去の歴史の1ページでしかないんだよね。確かにある種のバイアスはあるだろうけれども、そういうものはそもそも背景をきちんと教育しているべき話だし、それができないのであれば教育ってなんなんだろうと思ってしまう。とはいえ、学校の図書館というところでまだ教えていないものについて先にマンガから影響を受けてしまってはなあ、というような話だったらわからないでもないんだけど。今回の件は描写の過激さとかそういう建前がなされているのがおかしくて(まあ色々こういう話になる背景はあったわけだけど)。

禁書というのはよっぽどの理由を除いて特に政府によってなされるべきものではないと思うけれども、狭いコミュニティーの中で合目的的になされることはあると思う。そもそもあったものを見えなくする、という今回の話にかぎらず、そもそも何を置くかがそのコミュニティーの選択に任されている以上ね。ただ、理由が納得行かない、というのが今回の話。冒頭であげたとおり、過激性というのは印象において大きな差をつけることができる要素ではある。だからといって、それを禁止してしまうのは教育としては敗北(というか面倒事からの逃避)だよ。変な圧力があったらそれを機にいっそ読書会をするくらいの意識が必要なんじゃないかと。