あらたな技術と既存勢力との攻防

産業革命時にラッダイト運動を起こしたのは労働者の側だ。失業、高収入を失うことを恐れ、原因となる機械を破壊しようとする。大量生産ができれば資本家は潤う。価格が下がり今まで手にできなかったものたちが商品を手にすることができる。相対的に生活は豊かになるが、唯一、製造に携わっていた労働者のみが少なくとも短期的には損害をこうむる。結局機械は法律で保護された。
現代では、名もなき一個人が作成した仕掛けが既得権益を脅かす。一夜にして逆転することもありえるため、あらゆる手段を使って既得権益を守ろうとする。ここで保護されるのは、機械ではなく既得権益だ。なぜか。保護されているのがどちらの側であるか、それは今も昔も変わらない。
ウェブの世界が現実から恐れられているのは、数の論理が必ずしも通用しないからだ。現実世界におけるスケールメリットは、ウェブ界ではないに等しい。というよりは、一つの何かを作るのと、そこから多くの複製を作るので、コストに差がほとんど無いというのが正しい*1
ウェブ上での様々な問題に対して「今現在の法律に照らすと違法と言える」「今の法律の趣旨から言うと、こういった方向に規制を強化すべき」という意見が良く見られる。それは法治国家として間違ってはいない。たとえその法律が都合のいい抜け道を利用したもの、あるいは最大限の拡大解釈を行ったものであっても、書いてあることが正しく、既存の判例が正しいと言うのは当然だ。
問題は、既存の法律は、あらたな存在を想定しているものではないから、あくまで現実世界に照らすと、どうか、と言うものに大多数がなっていることだ。本当に必要なのは、その存在が何であるかを定義し、法治国家として定めるべきものをどう定めるか、ということにある。そして、その試みは個人情報保護法やプロバイダー責任制限法などによって徐々に実現している。しかし、例えば、仕掛けが類似しているといってカラオケ法理を当てはめる、そのこと自体がそんなに悪いとは思わないものの、「あたらしい存在である」ことについての無理解、または目をつぶる姿勢と言うのは、既得権益にとっては非常にありがたいことだろう。
これからも、新たな仕組みが生まれ、それが規制されていくだろうけれど、規制される根拠が必ずしもシステムの理念と一致しないことはあるだろう。それはシステムが悪いのか、それとも法律が悪いのか。容易に現実を投影することができる*2あまり、既存の法律を適用することに抵抗が無いことが多い。でもGoogleが日本にサーバーを置けないけれど、海外のサーバーを日本からアクセスすれば問題ないというような、時間と空間に依存しない存在を空間で縛ると言うナンセンスな状態が正しい状態であるとは言い難い。
既得権益既得権益のままでいるために維持される法律があるとすれば、それは法治国家のありようとして本当に正しいのか。それを決めるのは我々のはずなのだけれども、まだ、そこまでシステムによって世界が変わると言う認識は一般的なものではないのだろう。
一つ一つの事例について、現実の法律が如何にナンセンスであるか、と言うことを主張するのも大事だけれど、そろそろインターネットを社会デザインとしてきちんとインフラとして位置づけて、そして法律をデザインしていく、そういった作業が必要なのではないか。
こんな話が選挙の争点になるのはいつの日なんだろうか。それとも突如水面下から浮上してくるんだろうか。何も行われないで世界から取り残される、と言うのが最もありえそうな気がしてならない。

*1:もちろん、ここでは話が単純化されているから回線やサーバー費用の問題は無視しているけれども

*2:これは当たり前の話で、システムそのものは全く新しい概念であっても、そのサービスは現実を載せ変えたものに過ぎないことが多いからだ