ダウンロード違法化でインターネットとコンテンツ業界は変わる?

ウェブ市民的には選挙の大きな争点になってよいものだろうけど軽くスルーされて終わりそうな今日この頃です。集票力のある消費者団体がないからなあ。
ダウンロード違法化の目的はカジュアルコピー排除だという話がありましたが、なんとなく手遅れ感はあります。デジタルメディアにおけるコンテンツのあり方を根本的な話として検討するのではなく、既存のあり方をどのようにキープしていくかの話になっているからですね。
印刷機が出てきて聖書が聖職者の既得権益でなくなった時に、新しい権益の設定がなされたのは、世界が広かったことと、印刷機の目的が明確で、また印刷機そのものの希少性があったから可能だったのかもしれません。
しかし、デジタルメディアは汎用性のあるPCの、その一部の応用としてなされた成果物であって、そのことがかえって事態を複雑にしていますよね。ぶっちゃけ、こんなに身近なものになるとは思ってなかったのでしょう。
先の見通しが悪い業界が凋落していくのは世の常です。ダウンロードを違法化したところで、日本のコンテンツ産業が上向くとはあまり感じられないのは、コンテンツ産業の本質はマーケティングではないはずなのにそればかり重視しているように見えるからです。違法化によって売上が回復しなければどこに原因を求めるでしょうか。
ウェブも商売の世界とは違うところから出てきたものだから、商売との相性はあまり良くない。仕組みをいくら考えたところでその本質は共有にあり、有り体に言えばP2Pこそが本質なのですから、ダウンロードの違法化というのは土台を揺るがす大きな問題で、曖昧模糊とした「情を知った」著作物などというもののダウンロードのみを違法化する事をインターネットの終わりの始まりと捉えるのはそう間違いでもないと思います。日本だけだがね、終わるのは。
まあ、インターネットの存在価値がそれだけではないことは確かです。既存のメディアの複合体としてのインターネットはより商業色を強めていくことでしょう。単に「我々の愛したインターネット」が終了するだけです。それは無法とともに無限の可能性を持っていましたが、後に残るのは抜け殻だけ。それだけで、終わったというには十分です。
善意悪意の時代は終わり、秩序の時代がやってきます。そのことはそれほど悪いことではありません。しかし、一度自由を体験してしまった我々がそれを手放すことを許容できるのか。
インターネットの終わりの始まりは、もしかしたらインターネットが現実に取り込まれることの始まりではなく、現実を我々が変えていくことの始まりかもしれません。ただ、カジュアルなただ乗りの勢力の不満では説得力のある次代のデザインはできそうにありません。悪意の集積も単なる無秩序を生むだけです。善意の積み重ねでデザインされてきたはずのインターネットの本音の部分が本当に善意のみかという点ではWinnyなどに対する擁護の本音や誹謗中傷の跳梁跋扈などの現状に疑念があるのも確かです。
ダウンロードが違法化されたところで(いい意味で)何も変わらない筈なんですよ、本来は。もし、コンテンツ業界が意図した成果がでないどころか、ニコニコなどのサンプル的効果が本当ならいよいよ売上は下がり、やがて真に合法的なコンテンツの無料配布をしなければならないかも知れませんよ。
曖昧なままやってきたからこそ商売になっていたのだとしたら、ダウンロード違法化はもしかしたら既得権のあるコンテンツビジネスこそを終了させるものかも知れません。
そうであっても我々は喜ぶべきではなく、過去から集積されてきたコンテンツという人類の財産が散逸してしまうことを怖れるべきなのですが。