ジャーナリズムなんて幻想なのか

馬鹿は死ねと言いたい。

高木浩光@自宅の日記 - キンタマウイルス頒布にマスコミ関係者が関与している可能性

内容もなにもすっ飛ばして何よりもこの一言を紹介したのは、全くもって同感だからだ。批判されている内容とシステムと法律の話についてはリンク先を読んでいただきたい。
ターゲットはこいつ

しかし私自身の印象は、怯えや焦りとは相当に隔たっていた。そうか、ウィニーはもはやジャーナリズムになったのだな――。そんなことを私は考えていたのだった。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070522/125376/

一体全体、ジャーナリズムってのはどういう言葉なのか。Wikipediaを見たところで言葉の定義について腑に落ちる説明がされているわけではないが、全世界で起こったすべてのことをありのままに伝えるというものではなかろう。事実の記録が本当に必要なことなのであれば、個人の行動をレコーディングすべきだが、そんなことを望んでいるのでないのであれば、必然的にそれは伝えるべき事実の取捨選択という行為を含むはずだ。だから、ジャーナリズムとは少なくとも、誰かが「これは伝えるべきだ」と考えていることを伝えるものであり、主観であろうが客観であろうが、判断と言う行為が介在するのが必然だ。それなのに、ジャーナリスト自らがWinnyをジャーナリズムになったと言う。
この言葉にはなんとなくだけど「俺はひっかからねーよwwwwおばかな公権力はよく引っかかってくれて助かるぜww」的な匂いを感じるんだけれど、実際に流出して事件になっているのは捜査資料とか、プライベートなものとか、そういうもので、決して公共にとってプラスになるものではなく、ただ、問題になっているのは「流出するような管理体制になっていた」とかそういう話であって、大抵の場合、流出した内容そのものが評価されているわけではない(もちろん、内容そのものが問題のものもあるけれど)。だから、ジャーナリズムとは程遠い、パパラッチ以下の存在であるのに。

そんな価値観があるので、ネット界の、しかも人間ですらない(笑)、かの「極悪」ファイル交換ソフトに神聖なるジャーナリズムの名を与えるとは何事かと、怒りに沸騰する人が多数いそうなのは承知している。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070522/125376/

ジャーナリズムが神聖なわけではないのは承知しているんだけれど、怒りに沸騰するとしたらWinnyがジャーナリズムとかいう全く見当外れの記事を書いている奴がジャーナリストを自認していることだな。

だが、その種の情報の価値も軽視すべきではない。そもそも情報の価値とは受信者が決めるもの。個人情報をうまく扱える人間の手に渡れば、それは千金の価値を帯びるようになる。ジャーナリズムにおいても事情は変わらない。流出情報がどんな価値を持つかは、受け手側次第なのだ。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20070522/125376/

価値判断を受け手に全て委ねるのがジャーナリズムなのであれば、本当にジャーナリストは要らない。全ての国民の発言を記録することを義務付ける法律でも作ったらどうか。繰り返し述べるけれど、報道する必要も無い個人の情報が(本人の過ちの可能性もあるとはいえ)垂れ流しになっている、それを受け取る側が取捨選択せよ、と言うのは呆れるほど乱暴な論理だし、自らはターゲットにならないと見下している人間の発想だ。一人の失態により多くの人の個人情報が本人の責なく垂れ流しになるかもしれないという仕掛けのどこがジャーナリズムなのか。
蛇足だけど、社会において全ての人が全ての事実を知っているべきとは思わない。極端に言うと、事実を知るべきなのは、それを受け止められる力がある人だけだと思う。ジャーナリストが政治や経済の裏をときに暴くのは、必ずしも正義からではなく利害関係からだったりもするけれど、例えそれが社会正義(としておこう)に必要なことであるとしても、それが本当にみんなのためになるか、と言うのは意識しなければならないと思う。誰かの陰謀により、みんな受けるべきでない不利益を得ていることが隠されているとか、そういうことに対してなら文句も言わないけど、事実の報道によりパニックになり、それを防ぎつつ事態を解決しようと言うシナリオがご破算になる、ということもありうるわけで、単に暴露していい仕事したなんて言っているジャーナリストはバカじゃないかと思うし死ねばいいと思う。