物事に対する思いの差異

同じ思いを抱えていたり、同じ目的があったりしても、その思いの源泉は一人一人が違っている。その根本的なところの差異は本音で話したときには結構重大な違いになって、そこにほとんど違いが無い人だけを集めることってなかなかできないことだから、ときには揉め事の原因になってしまうけれども、どうしても発生してしまう。
その根本的な差異を認められないと、辛いことばかりだ。人生におけるその物事に対するプライオリティーがまちまちの集団で、いちばんやりたい人が中心になって動くことになるのはしかたがないし、そのことについて、それほど重要だと思っていない人があまり理解してくれないのもしかたがない。
理解して欲しい、という気持ちはもちろん否定されるべきではないけれど、それが義務とか責任とかに転嫁されてしまうと、気持ちの押し付けになってしまう。だから、説得か洗脳か、あるいは諦めしかない。これらの手段は、どれかを選べってわけではなくて、自分の気持ちに折り合いをつけながら(つまり、微妙に諦めながら)徐々に自分の側に引き寄せていく、というように時間を掛けてもいい場合もある。
どうして伝わらないんだろう。どうしてわかってもらえないんだろう。そう思って辛くなって逃げ出したくなって。でも、やりたいって人は自分がやりたいんだから、周りの無理解から逃げるのは難しい。その代わり、やり遂げたときの達成感は誰よりもあると思うけれど。だから、自分がやることに対して、ちゃんとやらない他人に文句を言うのはいいけれども、自分がやりたいからやっている、ということは常に意識していないといけないんじゃないかと思う。さもなければ、同じ考えを持った人だけを集めてやるしかない。人が多くなればなるほどそれは難しい。