グルメとコストパフォーマンス

外食でまずくて残すということはしたことがない。それは必ずしも味覚が鈍なわけではなく、もちろん美味しいものを食べたら嬉しい。でも、(よっぽど素性の知れないものが出てきたりしないかぎり、)食物は材料に経緯を払うべきだと思うから、残さない。だから、多少の難は乗り越えて、とりあえず食べてしまう。感性が鈍いって幸せ?

僕はこれを「グルメは果たして幸せなのか問題」と勝手に呼んでいて、「一度美味しいモノを知ってしまうと、普段の食事で満足することがなかなか難しくなってしまう。それだったら美味しいモノの存在を一生知らず、普段の食事をおいしく幸せに頂けてたほうが、満足度の高い人生を送れるんじゃないか?」という問題なんだけど。

グルメは果たして幸せなのか問題 - 世界のはて

これは非常にポピュラーな考え方であって、同じ呼び名でラベリングしている人も多くいると思う。
僕にとっては、しかし上記で示したように美味しいものを知れば知るほど美味しくないものを食べられなくなるかというとそんなことはない。ただし金額に見合ったものが出てこなかったら次は行かないだけだ。
東京は、食べ物がまずいと言う。そうでもない。ただ、コストパフォーマンスは悪い。妥当性のある値段の店があまり無い。500円の定食屋と800円の定食屋で前者のほうが美味しいことはままある。それは必ずしも土地柄ではなく、都心の真っ只中でも、安くて美味い店はある。当然、後者の店は「まずい」。リーズナブルでない。
まずい話は置いておこう。美味い話。食べ物の値段と味の関係は、指数関数的であって、10倍の値段を払って得られる満足感は精々2〜3倍だろう。上に行けば行くほどわずかの差に対してかかるコストが増大していく。そんなレベルのグルメは正直な話、道楽であり、日常ではない。それを日常にできるのは人に正直な商売をしていない人だけなんじゃないかと思う。非日常のコストと日常のコストを比べたとき、これしか払っていないから、この味であることは仕方が無いし、許容できると思えない人は不幸だ。自分の感覚が制御できていない。生きることと楽しむことの区別が付けられない。「美味しんぼ」の登場人物たちが「まずいっ(ぺっ!)」となるのは味覚がグレードアップしたわけではなく、道楽が日常に取り込まれてしまった結果だ。もちろん、多少の努力でコストを乗り越えることは可能な範囲もあるだろう。が、僕らが漠然と思うのは「新聞社って給料高いんだな」であろうね。
とはいえ、先に述べたような定食屋の差異と言うのは知れば知るほど不幸な気分になることがなくは無い。同じ値段ではるかに質のよいものを食べることが出来るのがわかっていて、あえてまずい方に行くというのは自分の中で首肯しがたいことだ。
近所に、ありえない値段の焼肉屋がある。多分都心で食べる値段の1/4ほどで同じ質のものが出てくる。牛○(色々あるね)のような値段、いや、それよりも安い値段ではるかに美味いものが提供される。もう牛○はいけない。僕の中で牛○はリーズナブルでは無くなってしまったからだ。もちろん、そんな夢のような店は予約しないとふらっと行くのは難しい。けれども。これは日常のレベルが上がってしまう問題かも知れない。日常、すなわち自分にとって気軽に普段から行ける価格帯の店を知れば知るほど、同じ価格帯の行きたくない店が増える。かくして世界は価格帯別いってもいい店と悪い店に分けられる。東京は行く気になれない店があまりにも多い。
まあでも、道楽のグルメと日常のグルメ、後者のレベルは少しでも上げていきたいし、みんながそこで妥協しないことでリーズナブルな店が生き残っていってほしいけれど、前者と後者を全く切り離すことのできない人は決定的に不幸だと思う。美食の奴隷として、金と時間を費やすことに、それでも自分自身を賭ける事ができるのであれば、それでいいのだと思う。お金のかかるほかの道楽と対して変わらない。ただ、その原資が尽きたときに、生きるために食べることが我慢できるか、どうなんだろうか。