実名匿名と、インターネット免許制

中国料理店の大きな円卓に、様々な料理が並んでいて、くるくる回して色々と食べてみるんだけど、一周して戻ってきておなかいっぱい。傍観しているとそんな感じなんじゃないかって気がしている今日この頃です。料理同士のコラボレーションってのは普通無いよなあ。フルコースみたいに秩序立てられたものでもなくて、こってりしたのがどんどん回転台に置かれていくだけ。
さてさて。
議論をする気があったら

これでネットを「他人にハラスメントを加えてストレスを発散する手段」だとする方々や、「気に入らない意見に対しては執拗にハラスメントを加えて押すつぶしてしまえばいい」とする方々が激減していけば

実名登録制と実名表示制: la_causette

こういう「俺はそんなこと考えてない!」という風に言われてしまうことを考えた方がよいと思うのだけれどもね。そういう人の思いは、「募金をしない奴は貧困者の敵」とか「戦争に反対しないのは殺人者」みたいな理屈でデメリットを主張すると「悪意の匿名者の味方」扱いされてたまるか、と言うことだと思いますよ。その悪い人々を減らせるかどうか定かではないシステム(と言うより本当に悪い人なら労力を厭わず穴を突きに来るだろうシステム)を導入することで、善意の利用者(日記的利用者)は減り、悪意の利用者が蔓延る未来に意味を見出せないということなのに。反発は必至です。
だから、小倉先生のこういう物言いは、本当に「悪意の利用者も認めるべき」と考えている人に向けられているのでなければ、意見全体の説得力にまで影響してしまいます。まあ、この辺の論法は結構お互い様的な部分はありますね。売り言葉に買い言葉。
ところで

現実社会では必ずしも名札をつけて歩いているわけではないではないかとの批判もあるようですが、不特定人に対して情報を発信するということ自体他人の人格を傷つける相当の危険性を定型的に有しているわけですから、単に街を歩いているのと同格に扱うというわけにもいかないように思います。

実名登録制と実名表示制: la_causette

ここで想定されている傷付けられる他人の人格と言うのは

  1. 発信者に関係がある人
  2. 発信者に関係が無い人

のどちらを想定しているのでしょうか。1のように関係があるのであれば、悪意の匿名者が、第三者の情報を晒し挙げる的な部分が該当するのか、それとも、日記に登場する上司への名誉毀損みたいな話か。前者はどうしようもなく撲滅しなければならない悪だと思いますが、原則実名なら回避しうるかも知れません。後者はうっかり的な部分を回避するのは匿名の方が簡単ですね。2の場合、極端な例で言うと、ホラー小説を書いてネットで公開したら「読んでトラウマになった!賠償しろ!」見たいな話なんてのも危険性?
なんだか、「自転車に乗っていたら人にぶつかる相当の危険性を定型的に有しているから」と言うのとレベルの差があまりない気もします。注意して避けるのが利用者の義務であり、度を越すと捕まるのも現状ですよね。でも言いたいことはわかる。

現実社会でも、違法行為が行われる蓋然性の高さと行われた場合の被害の大きさとを総合的に勘案した上で、特定の行為を行い又は特定の場所に来場する者について身元確認を厳格に行い、かつ、身元確認証の形態を義務づける例というのは少なからずあるのであり(例えば、普通乗用車の運転等)、インターネットで情報発信を行うにあたって同様の身元確認を行うとしてもそれはそれほど不思議なことではありません。

実名登録制と実名表示制: la_causette

結局そのあたりに思考が到達するんですよね。以前、実名とトレーサビリティーは直交する概念である - novtan別館というエントリを書きました。結論めいた最後の一文は単なる煽りですけれども。免許は場合によってはあってもいい。で、僕ははてなで書き始めた頃はかなり原則論(モヒカン?)的論調でまず色々書いているのですが、その頃の団体サイトと個人サイトと - novtan別館において、これは無断リンクの話が中心ですけれども、インフラを作った側である程度のシステム的な対応が利用者教育と同時に必要と言うことを書いています。
多分、こういった共通認識的な部分をルール化しようとしても、自分の利益に反するとして反対を唱える人が出てくるだろうし、表現の自由との兼ね合い、定量的でない基準など、ハードルも沢山あるけれども、最低限の持っておくべき心構えだけはルール化できないものかと思っています。ただ、明文化することによる「書かれていないことはやっていい」思考や、「初心者騙して訴えられたくなかったら金払え詐欺」のようなものが起きないようにしていきたいものですね。