書くことと、自由

何を言うのも、他人が言ったことに文句を言うのも、自由。それだけだったら大抵何も起こらない。でも、書くという行為はその言葉を定着させ、見知らぬ他者へ届ける行為。言葉が定着することで、それは自由を失うし、他者との関係を無視できなくなる。
僕がしばしば曖昧な表現に終始することがあるのは、思考が固着することを少なくともその時点では避けようとしているから。
ならば他者によって自由な思考は制限されるのか。批判や賛同により思考の筋道がある程度決まるのは確かだけれど、それは制限ではない。むしろ、定着した言葉に対して打ち込まれた楔であり、自らの枠組みを(つまり思考の牢獄を)打ち破る外的な力である。これに頼らなければ解き放たれないわけではないけれど、頑なに自らの思考に拘ることは、自由な思考とは到底言えまい。
しばしば、頑迷と信念は混同されるけれど、信念は思考の殻を破る内的な力として機能しうる。
批判をすることが他者の思考を制限すると思うことは自分の思考が他者によって制限されうると思うこととイコールであり、そして、その発想が人を頑迷にするのだろうか。