踏み込んだり、踏み込まれたり

自分のことはきっと理解されないし、僕も相手のことを理解できない。そう思っていた。僕にとって、理解すると言うことは何よりも大事なことで、理解できないものを遠ざけるのは、自明なことと思われた。
今になって思う。本当は、踏み込まれたかったんだけど、一線を越えることが怖かっただけだった。
少なくとも、少年期の僕は、そこそこみんなと仲良くして、そこそこ壁を作っていた。理解し難い部分で苛められたりもしたけれど、自分が踏み込まれたくないという自覚はあった。あいつらはバカで、自分は賢い、そう思ってやり過ごしていた友だちも、居た。僕が作っていた壁は、心の中だけのことで、きっと普通に友だちづきあいをしていたと思う。
高校に入って、自覚した。僕は人付き合いが下手なんだな。踏み込まれたくないんじゃなくて、本当は、踏み込まれたいのに、怖くて避けているだけだって。こちらからアプローチして壁を壊すこともできるけど、怖いから、踏み込まれるのを待っていた。もし、壁をぶち壊してくれたら、僕は変わるんだろうと思っていた。
みんな、そこそこ察しがよかった。そう、そこそこ。僕が壁を作っていることが、それだけがきっと見えていたから、それを察してくれた。いや、違うんだよ。そうじゃないんだよ。そんなことを思っても無駄。でも、定着しててしまったキャラクターはそうは変わらない。大学に行っても、会社に入っても、そこそこ付き合って、でもわりと一人が好きだよね、みたいな。誘っても誘ってくれないから誘われない、みたいな。
ずけずけと、踏み込んでくる人が居た。察しが悪くて、ずうずうしくて、無神経でゴメンねって言って容赦なく。何かが音を立てて壊れたような気がした。ドームの天井だけが壊れたくらいかも知れないけれど、違う世界が。

この人は、本当に、素朴に、相手の問題に”良かれと思って”勝手に踏み込んで”良かれと思って”自分の価値観を押し付けて、そして相手を評価していく人なのね、と思った。良いか悪いか、そればかり。私はこの人にとって、どうやらそういう対象であるらしい。

http://d.hatena.ne.jp/nitino/20070806

これは、確かにnitinoさんにとって最適なソリューションではなかったかも知れない。彼女なりのポーズだったかも知れない。自らの優しさの対外的なアピールだったかも知れない。でも、それはもしかしたら単に合わなかっただけかも知れない。

「優しい気持ちは、大事だと思うし、それは無くさないで欲しい。」「でもね、私とあなたは、違う人間だから、うまく行かないことも多いと思う」「でもね」「自分の良かれ、は相手の良かれじゃない、と言う想像力を少し持って欲しかったな、とは思う。」

http://d.hatena.ne.jp/nitino/20070806

僕に踏み込んできた人も、他人に対して、そういうことを言った。そう、違う人間だから、自分の良かれは相手の良かれではない。それは、事前には絶対わからない。こういうすれ違いのとき、どちらも相手に対して「想像力を持って」と言うものだ。想像力ってのは都合のいい言葉。自分が相手の思いを想像できないように、相手も自分の思いを想像できない。という事はあまり想像しない。踏み込まれて、わかったこと。他者に対する想像なんて自分の世界を実現する以外のなんの役にも立たない。
自分の価値観を他人に押し付ける、と言われる場合のいくらかは、単に自分の価値観で他人を解釈しただけに過ぎない。そう思えば、他人を許すのなんて簡単なのになって思う。そもそも許すも何も、そんな罪をおかしたわけではないのだけれども。
価値観の違いですれ違っている人がいる。その人は踏み込むと、防壁が発動してしまう。そういう人に踏み込むソリューションは有効ではないのだろう。
別のソリューションを見つけられることは、幸せなことだと思う。たまたま、それが上手くいかなかったときに、荒療治で解決する人もいる。あまりに人それぞれで、類型化も出来ないし、それぞれについての評価も出来ない。みんな違うんだ、そう思っていればいいと思ってる。