主観的な話をするときに必要なのは相手を論破することではない

例えば、数字を使っての推論とか、法解釈とか、数学的な理論とか、そういった客観的な指標があって、反証するために論理的な要素が必ず必要なものについて話す際に論敵が登場した場合、相手を論破することで、論争を終わらせることが可能。
しかし、必ずしも客観的でない議論、世界についての解釈とか、証拠が十分でないものについての類推とか、そもそも論理・理論じゃなく提言とか、そういったものに対して、論敵が登場した場合、論破しようとすると何が起こるか。そういった議論の場合、お互いの提示するものは、明らかな読み違えとかそういったものでない限り、全部を否定するのが難しいものになるはず。論破するには完膚なきまで叩きのめす必要があるのだけれど、当然、お互いに弱い点があるわけで、単なる揚げ足取り論争に終わってしまう可能背がある。まあ、でもそのことはよい。より多く欠陥がある方が最終的には負けるのだろう。あるいは、議論では決着がつかずに、最後は実力行使に終わるかも知れない。矜持をかけて決闘だ、と。
しかし、そもそも提示した内容は、何のためにあったのだろうか。
揚げ足を取り合う議論を遠巻きに眺めているギャラリー。本来は、このギャラリーたちに自分の言いたいことを伝えるのが目的だったはずなのだが。その冷ややかな目線に果たして気付いているのかどうか。
正しいことを証明することが本来の目的ではない。より多くの人に、納得感を与えることすなわち支持してもらうことが目的なはずだ。目の前の敵に勝つことは正しさの指標にはならない。むしろ、勝つために行った議論がもとの論の信頼性に影響を与えるかも知れない。ギャラリー曰く「ああ、こういうこと言う人なのね」。
物事に対して常に同じアプローチを取ることは、一見望ましいことのように見えるけれど、事態を把握していないことの証左にもなりうるわけだ。