失言も、首にならない、民主主義
と駄句をひねり出したくなる今日この頃ですね。
ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。その敵は自由を嫌い、米国や西欧諸国への怒りを心に抱き、大量殺人を生み出す自爆攻撃に走った。
http://www.asahi.com/international/update/0824/TKY200708240002.html
アルカイダや9・11テロではない。パールハーバーを攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊の話だ。最終的に米国は勝者となった。極東の戦争とテロとの戦いには多くの差異があるが、核心にはイデオロギーをめぐる争いがある。
日本の軍国主義者、朝鮮やベトナムの共産主義者は、人類のあり方への無慈悲な考えに突き動かされていた。イデオロギーを他者に強いるのを防ごうと立ちはだかった米国民を殺害した。
ブッシュ大統領の素晴らしい歴史観に涙が出そうになります。
こういう話を聞くにつけ、僕は人間の素晴らしさを感じる。100年にも満たない過去のことですら、現在の価値観に照らし合わせると、卑怯卑劣で非人間的な悲しい行いをした、と認識できることだ。
もちろんこの発言は間違っている。現在の価値観において過去を再評価することは無意味だ。意味のある再評価とは、当時わからなかった社会情勢や、裏事情などを加味した上で、当時の価値観の上ではどうするべきだったかとか、誰が悪かったのかとか、誰が素晴らしかったのか、それをどういった未来への教訓にすればよいか、などのことである。現在の価値観において断罪する必要があるのであれば、まずもってアメリカはネイティブアメリカンに莫大な補償をすることから始めなければならないだろう。強制連行してきた黒人たちにも。自由を与えるのは補償ではない。
もう一度言うけれど、このブッシュの発言は愚劣だが、戦争をする、ということに対する価値観の変遷を見て取ることが出来る。そして、額面どおりに受け取れば、大量の殺人行為は人として行ってはならない、ということになる。ただし、ここで注意したいのは、戦前の日本の行為を「アメリカ的な正義の戦争ではない」と定義することで非正当化し、依然として「アメリカ的正義の戦争」は肯定していることだ。つまり、決して戦争そのものの否定をしているわけではない。
戦うことに大義名分は必要なのだろう。WW2前は、富国強兵、というのが十分大義名分になりうるほど世界は広く、未開だった(少なくとも、そう思われていた)。今、世界は限りなく狭い。少なくとも一方的な富の搾取は道義的に許されない。とすれば、大義名分に「正義」を置く事は自然なことなのかも知れないが、世の中にとって一番不幸なのは「正義」の暴走であることは、古来から未来予測として(近年ではSFとして)描かれている様々な想像からも明らかである。
そう、人間は想像力の動物であり、正義という名のイデオロギーは、富の拡大と同様に人間から想像力を奪う最も優れたものだ。戦争とは大義名分の下での殺戮行為である。その目的の正当性に関わらず、そのことだけは真実である。それに積極的に加担することは、その大義名分ではなく、真の目的に加担しているということだ。