相似形

今回の妊婦「たらい回し」についてのエントリを眺めていたときに、ちょっと気に掛かったエントリ。

かなり以前から指摘されていることですが,事故の被害者が嘆き悲しむのは当然のことであって,それを咎めるいわれはありません。ただし第三者がそれに引きずられて客観的な判断を誤ってはならない筈です。とはいえ現実には被害者の感情に引きずられた判断があって,その結果弊害が生じています。

被害者の処罰感情 - Dr.Poohの日記

光市母子殺害事件にしてもそうだけど、感情を煽り立てる恣意的な報道や、逆に被害者感情を逆なでにする行為や、そういったものでこそ世間は動く、と言うのが長い目で見てどうかというと、弊害が生じることがほとんどだと思うし、それでも世間が動くためには感情が必要だから、必死で動かそうとしているのだろうけれど。違和感があるのは、その感情を揺さぶろうとしている人たちの立ち位置がさっぱりわからないからかもしれない。つまり、本音が見えない。なのに、表層だけ煽られ、乗せられていく世論を見てしまう。
もし、感情に乗せられて良しとするのであれば、それはその煽っている人のもつ理想に共鳴するからでありたい。
可笑しいのは、こういう話って大抵の「現実を知ろう」「本来の職務として」「現場ではこう」見たいな発言の根底にあるものなんだろうけれど、それぞれの立場ではそう言える人が、違う立場(職業といってもいいか)の同じ話を全く理解しようとせず、「自分の仕事はこう。お前らのことは斟酌しない」的な発言をしてしまうこと。遠くから眺めると、どちらも自分の立場から言うことが正しいゆえに相手の発言を否定しているようにも見える。目的として被害者(なりそういう立場の人)の感情に引きずられないことがあって、そこに注力した結果、かえって客観性を失ってしまうのであれば、それもまた意味のない議論だ。
そこはお互いに歩み寄って、妥結点を探すことが社会行動というものであって、その双方向性を一切無視するのであれば、よほどの「正しさ」がそこになければならない。もし、その正しさが独りよがりでないというのであれば、きっとその訴えは世の中を動かすに違いないと思う。