日本語の進化について

ちょっと面白かったのでエントリたてて自己流解釈

・そこの公園で子供が遊んでいる
・そこのクラブで彼女が踊っている
・そこのコンビニでおでんが売っている
・そこの畑でキュウリがなっている
・そこの校庭で桜が咲いている
・そこの河川敷で花火大会が開かれている

Life is beautiful: 日本語の進化について、一つの実験をしてみる

僕は「で」というのはなんとなくだけど行動の舞台を示す言葉であり、そのあとの「が」は動くものを指す様に思っています。つまり、「で」は話の主体ではない。「そこの〜」を話の中心に持っていくときには使わないように思います。
ので、

  • そこの公園で子供が遊んでいる⇒違和感なし
  • そこのクラブで彼女が踊っている⇒違和感なし
  • そこのコンビニでおでんが売っている⇒おでんが売っている…何を?
  • そこの畑でキュウリがなっている⇒きゅうりの力強い意思を感じます。擬人化。
  • そこの校庭で桜が咲いている⇒「で」ではなく「には」なら違和感が無い、のはきゅうりも同様かと思うけど何か違う。「実がなる」「花が咲く」と「きゅうりがなる」「桜が咲く」。単に普段見慣れているかどうかの差に思えてきた。
  • そこの河川敷で花火大会が開かれている⇒これも「では」かなあ。なんか「で」だと投げやり感があります。それは話の中ではあまりどうでもいいポイントに聞こえるからか。「では」にしたときには明らかに「河川敷」が強くなる。

うん、なんか「日本語には主語がいらない」を思い出してきた。もう一回読んでおこうかな。