集合知は未来に向けてしか開かれていない

オレオレ定義だけれども。
集合知が旧来の知識のウェブ化であるならば、なんのことはない、それはタダのデータベースだ。旧来の知識に新たなる権威は必要ない。十分に信頼に値する旧来の権威の方が、誰が修正するともわからないWikipediaの記述より正しい確率は高い。
データそのものは集合知にはなり得ない。単なる量を排除するためにGoogleアルゴリズムはあり、それは単純な多数決の排除である。多数であることもまた、集合知を意味するわけではない。
集合知は、データの結び付けや解釈、新たなデータの入力によって未来を紡ぐ力だ。
つまり、クラスタリングされた知的活動こそが集合知であり、インプットそのもの、アウトプットそのもののことではない。
個々の人格が自らの主張を他者と戦わせるのは議論1.0で、仮想的な集合人格が自己の論をブラッシュアップしていくのが議論2.0であり、集合知だ。
衆愚の泉に垂らされた一滴の魔法の雫が集合知だ。
集合知は未来に向かう力であって、過去に縛られた知識ではない。インプットする力であり、アウトプットする力である。