感性を重視しすぎないこと

どこからどこまでが正しい日本語か、と言うことについては非常に難しい問題だと思うけれども、意思の疎通のための思考の共通化としての言語を考えると、言葉にはある程度まではルールがあり、それを逸脱した感性を認めることはやぶさかではないのだけれども、そこで共通認識を得られないことで社会からも逸脱するのが本人の意思であるかどうかは俄かに決定し難い。だから、感性は殺したくないけれど、文法は学ばせたい。矛盾した問題かも知れないけれども、およそ芸術的型破りと言うのはある程度型があってこそだと考えると、幼少にはできるだけ正しい言葉を聞かせたいと思う。

たとえば、みっつめの「花輪君〜」の文章は、詩として通用するものだと、私は思う。なんてよい文章なのだろう。文法がおかしいとか、論理が変だとか、そういうことを超えて、「花輪君は〜」の文章はよい。「ので」でつながっているからこそ、この文章はよいのだ。

http://d.hatena.ne.jp/Trou/20071020#p1

この、ぎりぎりのライン。僕もこの感想には同感するけれども、ぎりぎりだ。多分、ダメと言った方がよいのだろう。じゃあ一つ目二つ目はどうか、と言うと、そちらはダメだと思う。いずれにしても、大人が普通の文章としてこんな文章を書いていたら、ダメと言われるだろうし、それまでダメといわれなかったとしたらそれは不幸だと思う。
ルールと感性、同時に教えるのは多分とても難しい。上手く別々の存在として認識できる方法があればよいのだけれども。