メタ司法としての世論

dankogaiがさらっと重大なことを。

実際には、同様の事件が起こったら、より被告人に不利な判決が下るような法を制定させてしまうのではないだろうか。実際、そういう流れになりつつある。

404 Blog Not Found:司法とメタ司法

飲酒運転での事故への量刑の増大なんかを念頭に置きつつ(多分ね)、光市の事件と取調べ可視化の現場の対応について批判ともなく書かれているわけです。問題提起的なものだけど。
確かに一理あるんだけれども、どっちかと言うと、司法が世間の空気を読んでいるほうが問題のように思えたりもします。被告により厳しい判決が出たり、買収防衛策が適法になったり。とはいえ、この話が「弁護士は良くやっている。衆愚に寄り添う必要などない」と言う批判をされるような話でもないと思ったりはします。だって実際に空気読んで法律変えるのは立法府たる国会です。我々が司法に直接干渉できるのなんて有効性のあったためしのない最高裁判所裁判官の承認だけだし。
ただ、裁判官は空気を読んで判決を出すべきではないけれども、弁護士は、「今この手段を使ったら勝てるけど、その後色々と支障が出そう」な手段を使うべきか、と言うのは個人的にはまだちょっと肯定しづらいところがあります。取調べの可視化についても時期尚早ってのはいつから起算しているのか。ずいぶん前から言われているはずなんだけど、時期尚早ってことは、時期を考えて戦略を立てているはずで、この言葉が出てくること自体空気読まなさすぎの気配を感じるわけです。
別に個々の事例の対応を非難しようとしているわけではないと思うのですよ。ただ、勝つための目的には非常に有効なある手段を濫用していると、その手段を使いさえすれば勝つ(なにやっても自白させちゃえば勝ち、とか飲酒して轢逃げは現場に留まらず家帰ったほうが結果として量刑減みたいなね)、と言う一方的な事態が続くと、世の中はそこのバランスを適正化しようとして動くはずなのですよね。じゃないと法律なんて新しい事案以外は改正する必要なんてないし。
その、世の中のバランス感覚と言うのは単に衆愚と片付けるのではなく、ある程度重視していかなければならないことだと思います。でもじゃあ現場はどうすればいいのさってのは僕もよくわからないけれども、一つだけ言えることは「言葉は選べ」と言うことでしょう。強力な手段を使おうとすればするほど、脇の甘さによる失言*1は致命的な戦術ミスになりかねませんし、その一つの敗北が戦略に大きく影響を与えそうです。
「今の」司法が正しいなんてのは今を生きる僕たちにはわからないことも多いのです。そんな中で、立場における対象者の最大の利益と、社会正義と、自己のモラルの板ばさみになる司法関係者の奮闘は大変なものと思われます。正直頭が下がります(大抵は)。裁判員制度の問題の一つは、そういった覚悟を一般人に強いるわけでもなく、簡単に世間の風を導入してしまうような、そういったことになりかねないか、と言うこと。特に、大きな戦術として「裁判員の心を動かす」が成り立ってしまうのであれば、問題ですよね。裏返して言うと、今の司法関係者に「人としての心」を過剰に求めることはおかしな話だと思います。
それでもなお、人間の集団としての社会において、司法が一つの重要な活動であるからには、そこに全く「心」がなくなってしまっては仕方がないと思っています。重要な事件になればなるほど、当事者たちは非人間化(人の心を失うって意味じゃなくて、客観的存在として論評されるってことね)していくわけですが、それでもなお、現場で動いている人は人間だし、一方で世論と言うのも結局のところ行き着くところは一人一人の人間です。
なんとなく、こうしてみると非難されるべきは一番非人間(これは悪い意味でも)的な存在である報道機関、特にバラエティー的に世論を煽る番組のような気がしてならないのですが、そのことについては今回はこれ以上の言及はやめておきます。

*1:こういう可能性があるから今枝弁護士は解任されたのかも知れない。となると、弁護団は相当な一手を打ってくるとも考えられなくはない