「気持ちはわかる」けれども

「気持ちはわかる」と言う言葉の後には大体「けれども」と続く。つまり、気持ちはわかる「のに」否定をしなければならないときに止むを得ず使う言葉。少なくとも僕はそう思っているのだけれども。
じゃあ何でわかるのに否定するのか。それは、その感情なりその論理なりはある文脈では適用できるし、その場合どうしてそういいたいか、と言うのがわかる、ということであって、また、今の文脈ではそれは適用不能であるから、そのベースの考え方そのものを否定しているのではなく、むしろ肯定したい気持ちがどこかにあるのだけれど、それでもなお、今ここでそう言われることを首肯することは出来ない、と言うことなんだろう。
もちろん、その肯定しうる文脈において、必ずしも僕の想定しているものと相手の想定しているものが同じとは限らない。同じでなくても適用できるかも知れないから。そういう意味では、「わかっていない」のかも知れないし、誤解しているのかもしれない。でも、少なくとも、相手の言に対するある一定の価値を認める行為であるし、だからといって今の文脈とそれが関係あるわけでもない。相手からすると、いずれにしてもわかってないように思われてしまうかもしれない。
本当にわかっているのかどうかもわからないのにわかるって言ってしまうのは不誠実かも知れないけれど、あるいはその表明自体が上から目線的な発想なのかも知れないけれど、別の文脈では分かり合えるかもしれないそれを、全て否定してしまうのは悲しいことだと思うと、ついついこういう言葉が出てきてしまうものだ。