リンク論なんているのか?

まあシステムとか、既成の事実に対して解釈を加える、と言うのは社会学的な観点では意味のあることなのかもしれません。でも、その視点の中で、論理学的な解釈を行うことにはあまり意味はない。こっちは社会学、こっちは論理学、みたいに焦点がぶれてしまうと、それこそダブスタ的な議論になって、賛成だけど反対という結論以外は出にくくなります。

  • 「リンクをして欲しくないサイトからのリンクを物理的に排除できない」ことについて文句を言える筋合いにない。(ウェブはリンクをされた人にそのリンクを物理的に排除する機能を与えていないし、その人がウェブを利用しない自由も制限されていないから。つまり、自己責任。)
リンク・被リンク論(暫定版) - くっぱのブログ

カッコ内は前提ですね。この前提を基にして、「文句を言える筋合いにない」という結論が導かれています。この前提は、機能が与えられないものに文句を言ってはいけないというルール。

  • 「あなたのサイトからリンクをして欲しくない」という立場でウェブを利用する人を「ウェブの理念に反する異端な利用者である」と扱うのは論理の飛躍。(ウェブが「リンクをされた人がそのリンクを物理的に排除することを不可能にする」という理念のもとに設計されていたとしても、そのことをもって「『あなたのサイトからリンクをして欲しくない』という立場でウェブを利用することを不可能にする」という理念のもとに設計されているとは必ずしも言い得ない。)
リンク・被リンク論(暫定版) - くっぱのブログ

こっちのカッコ内は、ルールに明示されていない部分を論理的に類推して導かれた結果。言い得ない、のに言ってしまうのが論理の飛躍ということになりますね。いずれにしても、これはルールが正であり、また明示されていない部分は不明であり、不明であるところは断言してはいけないという論理でしょう。もっとも僕は飛躍ではなく制限範囲の認識の相違ではないかと思いますが。ここで認識相違が起きる原因は、自由にリンクをしていいんだと考える人の中に「設計によって表現されているのが理念だ」と考える人がいるからであり、またその人はそのことにより、「という理念のもとに設計されている」と断言するからです。僕はどっちかというとこっちですね。システム屋さんとしての発想の基本からすると、必ずしも飛躍とは言い切れません。ただし、真実であるかどうかは、何を持ってしてもわかりません。最初の設計者=インターネットが今のようになる意図を持って業界を動かしてきた、というわけではないですから。インフラを敷設する、あるいはシステムを提供する人の中にそうでないと考える人が居る時点で、元々の意図や信念は拡散してしまっています。

  • 「あなたのサイトからリンクをして欲しくない」と考えている可能性のある相手を納得させることなくリンクをする行為は、「その人が望まない形でその人を不可逆な状態に陥れることになる可能性を認識しているにもかかわらず、その行為をその人にしても構わないと自分の価値観に基づいて一方的に判断し、それを実行した」という事実を生じさせる。
リンク・被リンク論(暫定版) - くっぱのブログ

こちらは、初めのルールを前提にしていません。だから、一番目が成立する世界と同じ世界での議論であることについて確信がもてない事実の提示になってしまっています。つまり、これらの論は全てが独立した議論であって、それぞれ別の前提が置かれているように見えます。最後のものについてもこの不可逆な、と言う前提から一歩も離れないのであれば、これ以上議論が展開することはありえません。
どうしても議論が進まない原因は主にここにあるのではないかと思います。それぞれの議論は一つ一つでは必ずしも間違いではありませんが、それを繋げることには無理があって、それは前提や話している次元が違うからですね。
ある複数の思考から組み立てられる論において、その前提となるところを合わせていくことはすごく大事なことで、もしそれをしたくないのであれば、例えばこの三つを同時に成り立つと提示する、というような行為は無意味ではないかと思います。