贔屓とか、好みとか

多分、論理的か感情的か、と言う問題ではなくて、「どこに」それを適用するべきかが自分の価値観とあっているかあっていないかだと思うので、たまたまレベル感が揃って自然に仲良くなる人と、ギャップを探りながら、何とか議論できるポイントを探そうとしている人がいるはずなんだよね。そういう手間を排除するために専門用語があったりもするけれど、それは同じ目的意識を持っていないと共有しづらいし。
自分の基準を明確に打ち出して、それで応対しようということは立派だし、常にそうである自分をキープする大変だと思うけれども、それはそれで、「相手は全てその基準で解釈します」と言う一つのブン投げ的な基準であって、人によっては取り付く島もないと感じるかも。
かといって、相手にあわせようとすればするほど自分はぶれるし、そのぶれた部分を突かれるのは気分が悪い。
こっちが論理で話したいところで相手が感情で話したい、もしくはその逆であったときに、どう対処すればいいのかはわからない。その時々でも違うし。だから、原則を普く適用すると言うのが自分がぶれないためには一番よい。
…と言うのは、やっぱり仲間内と言うか、共有できるものがある中でしか議論できないよ〜っていう話にも思えてしまうので、僕は常にぶれまくっているし、多分、相手によって言うことが全然違うし、その自分の発言同士が、論理的に矛盾していることも、価値観的に矛盾していることも、多々あると思う。そして、それでも良しとしている。だから、誰が言った、と言うことは大事ではあるけれども、少なくともウェブにおいて…その人の連続性を見極めることが出来ない場において…は、やりとり単体で評価し、議論したいと思うのです。極端な話、前段と後段で話がおかしくなっていても、話になるときはなる。
んでもって、例えば、その人のブログを時系列で通読したときに、あれ、おかしいな、と思ってもまあいいかとしてしまうくらい、僕は適当なのであるけれど。矛盾していてはいけないものは学術論文くらいだと思ってる。現実を日々暮らす自分が矛盾の塊である以上、書いたものも矛盾の塊であることから逃れられない。常に論理的であらんとする人の強靭さが羨ましい。