経験の共有と表現と比喩

成功体験で失敗しやすいのは、その体験があくまでその状況、その場の人々でなされたものであって、同じやり方を同じように適用したって他のところでは通用しないよねって言うところだと思うのですが、そういうのもひっくるめて、経験のあるなしと言うことは非常に大きな問題。本当は、経験したかどうかではなくて、経験した上でそれを咀嚼したかどうかだけれども、まあ、そのことを便宜上経験がある、と呼ぶことにしよう。

表現者は、ウエブに表現を置くときに「自分自身が体験した事を他人は体験出来ていない」事を前提にした上で「何を表現として伝えるのか」を考える必要があるように思いました。体験を共有出来ていない他者に向かって「わかって貰う」事を目的とするならば表現はどのように行うべきなのか。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20071124/1195874884

そういうものだから、結構容易に使いたくなってしまうのが、たとえ話。そのまま同じような経験はしたことが無いだろうけれど、似たようなことなら経験したことあるでしょ、と。もちろん、本質が微妙に異なったりするので必ずしも伝わるわけではないけれど、これも一つの困難なコミュニケーションを克服するための手段でしょう。もっとも、最近はそれぞれの異なった枝葉末節をもってたとえ話をすること自体が否定させることもありがちですが*1
専門用語みたいな、ある一つの概念を言い表すために作り出されたものも、その一つの側面としては、直接の経験ではなく、その抽象化によって概念をなすものであるし、結局、同じ体験をするということが非常に難しいけれど、一方で、同じ体験をすることで得られる共感と言うのはともすれば「感」のところでしか繋がらなかったりして、本当に「理」の部分で分かり合っていなかったりすることもあったりして、体験を共有することそのものがコミュニケーションと言うわけでもないと思うのですよね。アプローチとしての第一歩として、最も協力なのは体験の共有かも知れません。ただ、そこで止まってしまうことは(目的が単に楽しいことを分かち合ったり傷を舐めあったり、ということであればともかく)、それもまたコミュニケーションではないと思ったりもします。
だから、書き手としても読み手としても、できるだけそこに表現されることは抽象的に捉えた、捉えるものであるとして読んだり書いたりしているのですが…それだと相手の求めるコミュニケーションにならないことは多いですね。
他人の言っていることに対する「わかる」ってのは前も書いたかもしれないけど「あー、それあるある」に過ぎないことがほとんどですし、そのレベルでもわかるって言った方がよいんじゃないかなあ、って思うことも多々あります。
結局、相互でお互いのことをわかろうとする、という行為がコミュニケーションなんだと思います。そこには共感あり、反発あり、殴りあいあり、朝まで飲み会あり。

*1:比喩が間違っているとか、文脈的に適用が不可能、と言うのはたとえ話をする側の問題でありますが